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神社と正史と北白川宮

1937年から39年頃にかけて撮影されたとされる国策記録映画『南進台灣』には、冒頭にこんなナレーションが入っています。

台湾が我が領有に帰したのは明治二十八年四月十七日、下関条約が締結されてからであります。我が領土となってから同年六月十四日、樺山海軍大将は第一代の総督として赴任し台北城に入り、同十七日、時の近衛師団長にて御座(おわ)した北白川宮能久親王殿下の御台臨を仰ぎ、ここに総督政治の始政式を挙げ、爾来四十幾星霜今日の絢爛たる文化台湾を生んだのであります。


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下関条約で台湾が日本の統治下に入ってからも、各地でなおも抵抗が続いていて、この近衛師団を始めとする日本軍が「平定」のために戦闘を続けていました(乙未戦争)。北白川宮能久親王近衛師団長として出征したものの、この始政式のあと台湾中部でマラリアにかかり、台南にて没したとされています。そのため「平定」後は台湾各地に建てられた神社の祭神として祀られることになりました。

File:Migita Toshihide - The Imperial Guard Defeats the Enemy in Hard Fighting at Jilong on the Island of Taiwan - Google Art Project.jpg - Wikimedia Commons

この他にも、日本統治時代の台湾ではこの北白川宮を偲ぶ、あるいは顕彰する遺跡や記念碑の類が数多く作られていたようで、例えば台湾の「中央研究院臺灣史研究所檔案館」で「北白川宮能久親王」をキーワードに検索してみると、たくさんの写真が見つかります。北白川宮が泊まった場所、通った場所、使った品々……台湾統治の最初期に「殉職」したことで神格化が進んだのだと思われます。

openmuseum.tw

こうした遺跡や記念碑の多くは日本の敗戦後、神社とともに廃棄されたようですが、今でもほんの一部が残っていて、例えばGoogle Mapsで「北白川宮」と検索をかけてみるといくつかがヒットします。そのうちのひとつ彰化縣永靖鄉にある「餘三館」に行ってみました。この建物は地元の富豪の邸宅で、北白川宮が転戦中に療養するため、ここに三泊したのだそうです。そばに「北白川宮能久親王遺蹟碑」が建っていました。

北白川宮マラリアに罹って亡くなったとされていますが、実は戦闘中にゲリラの攻撃に遭い負傷したことが原因という説もあるようです*1。ただ、こういうのは歴史を記述しようとする主体によって都合のよい「正史」が書かれてしまうのが常です。台湾を統治していた日本側からすれば、相手側の攻撃によって「やられてしまった」というのは、認めたくなかったのかもしれません。

ともあれ、こうして北白川宮は神格化され、日本による台湾統治時代を通して台湾各地に作られた神社に主祭神として祀られることになります*2。そのうちのひとつ、台中神社の跡地にも行ってきました。社殿があった場所には孔子像が立っていて、神社の面影はありませんが、狛犬と寄進者の名前や年月が書かれた灯籠の礎石(?)が並んでいました。それと手前に鳥居が横倒しで置いてあって、コンクリートのようなもので塗りつぶされた「臺中神社舊御本殿之趾」という文字が読めました*3


Google Maps にも横倒しの鳥居が写っています。

私自身は無宗教の(というか神社にもお寺にも台湾のお廟にもお参りしちゃう無節操な)人間ですし、皇室や皇族についても格別の思い入れは(好悪ともに)ありません。でもこうやって日本統治時代の台湾について知るにつけ、神社を作って参拝させる……というようなやり方はいかにも下策だったのではと思わざるを得ません。上述した『南進台湾』では「かくの如く短日月において好成績を挙げたものは世界植民史上に稀でありまする」とナレーションが入っていますが、インフラ建設などはともかく、人心の把握についてはやはり深慮が足りなかったのではと思います。

改隷前の台湾は清国政府より治外荒唐として放置され、その住民は化外の民とされておりました。然るに改隷とともに日本は、これに忠良なる帝国臣民を以て同化訓育に努め、その功虚しからず改隷後数年ならずして土匪の反乱を鎮定し、産業の指導奨励、鉄道、港湾、交通の建設改修、通信事業、衛生の完備、治水灌漑事業、理蕃事業、教育普及に、地方制度改革に、軍事に各般の事業は着々整備し、その成果を挙げ、ついに今日の如く全く昔日の面目を一新するに至ったのであります。かくの如く短日月において好成績を挙げたものは世界植民史上に稀でありまするが、これ畢竟我が皇室の一視同仁の恵沢は申すまでもなく、また官民一致協力の努力による血と汗の結晶であります。日本と日本人の力で築いた新興台湾であります。

台湾統治のあり方を「我が皇室の一視同仁*4の恵沢」と言っておきながら、そのすぐあとで「日本と日本人の力で築いた新興台湾」と言っているところに、植民地統治というものの本質がはしなくも現れているような気がします。当時の台湾は日本の一部なんだから、日本と日本人で間違いないんだとおっしゃる向きもありそうですけど。

*1:ネットを探すといくつも見つかります。例えばウィキペディアでも、日本語版には書かれていない「死亡之謎」という項目が中国語版にはあります。

*2:その数70社以上にのぼったようです。 台湾の神社 - Wikipedia

*3:後年、台中神社は他の場所に移転したようで、この鳥居は「初代」のものをこの地に記念として残したものなのかもしれません。

*4:いっしどうじん【一視同仁】〔韓愈「原人」の「聖人一視而同仁,篤近而舉遠」より〕誰であろうとも差別をつけず、すべての人を同じように愛すること。(大辞林第四版)




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