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霧社と無邪気と大鳥居

明治神宮の参道を歩いてきて本殿のほうへ曲がるところに、木製の巨大な鳥居*1が建っています。この鳥居は二代目で、一代目が落雷で破損したため、1975年に再建されたのだそうです。当時、日本国内にこれほど大きな材木はなく、台湾の阿里山で樹齢1500年を超える檜を見つけ、地元の人々の協力も得て日本に運ばれたーーと明治神宮の公式サイトに記載されています(Q12)。

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実は二代目だけでなく一代目の鳥居も台湾産の檜でした。1920年明治神宮が作られた際に台湾総督府から「献木」されたのだそうです。日本による台湾の植民地統治は1895年から1945年。明治神宮が作られたのは、ちょうどその真ん中ごろの時期にあたります。のみならず、当時明治神宮に作られた八つの鳥居すべてが台湾産の檜でまかなわれたのだとか。

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これだけの巨木が存在するほど山深い台湾の脊梁山脈。その中央にほど近い仁愛郷まで行ってきました。かなりの急勾配とヘアピンカーブの連続で、これだけ急峻な場所で車を運転したのは、若い頃に宮崎県高千穂町の土呂久*2へ行ったとき以来です。台中と花蓮を結んだ線のちょうど中間あたりにある仁愛郷に行ったのは、霧社を訪れてみたかったからです。

霧社は、台湾が日本統治下にあった1930年に先住民族のセデック族が決起して日本人を襲撃したことに端を発する「霧社事件」が起こった場所です。魏徳聖監督の4時間半以上にも及ぶ映画『セデック・バレ』をご覧になった方もいるかと思います。この事件の歴史を学んでみると、ひとりの日本人としては何とも割り切れない気持ちに襲われます。

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事件のベースにあるのはもちろん、日本による台湾の植民地統治と抜きがたい被統治民(とりわけ先住民族)への蔑視、さらにその文化への無知や無理解です。それだけでも胸が詰まる状況なのですが、結果的には霧社で暮らしていた日本人の一般市民、さらには現地の台湾人をも含む多くの人々の命が失われ、さらには多くのセデック族が自殺したこと、「制圧」に際して毒ガスの使用が疑われていることなど、史実やその背景を知れば知るほど胸ふたぐ思いになります。

車で訪れた私が言うのもちょっとおこがましい気がしますが、霧社で感じたのはその場所の垂直方向への広がりというかスケール感です。映画にも出てきますが、セデック族の人々がこの高低差の激しい土地で暮らしを営んできたそのリアリティが伝わってくるような気がしました。加えて、この場所にそれなりの規模の日本人コミュニティが作られていたというその理由についても、再度考えさせられました。

もちろんそれは日本の台湾における資源開発や先住民族の「管理」という一連の政策が背景にあったわけです。当時の国策記録映画に『南進台灣』というのがあって(YouTubeに動画があります)、その冒頭にこんなナレーションが入っています。

我々日本民族は、毎年百万の人口増加と開発され尽くした貧弱な天然資源とのために、ただ狭い島の上にもがいているのであります。然るに今日の世界は日本の移民を拒絶し、日本商品を排撃しております。我々はこうした情勢を打ち破るために、北に強固なる国防の一線を画し、さらに南に産業と経済の生活線を拓いて行かねばなりません。こうした場合、我々の前に重要なる地位を占むるものは何でありましょうか。すなわち台湾であります。帝国が南に伸びるための礎石ともいうべき台湾の存在を深く再認識せねばなりません。


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当時の日本の南進政策、その大きな目的の一つが資源収奪であったことが「帝国が南に伸びるための礎石ともいうべき台湾」とある種「無邪気」に表明されています。この映画が制作されたのは日本の台湾統治も末期にさしかかった1937年から1939年頃のようですから、霧社事件の後になります。でもこうして台湾を踏み台として日本を膨張させていこうとした(後年、大東亜共栄圏構想につながります)その野望が、霧社事件を招来したのだと思わざるを得ません。

霧社からさらに奥に進んだところにある廬山温泉には、霧社事件で決起したセデック族の頭目(そして映画『セデック・バレ』の主人公でもある)モーナ・ルダオの記念堂があるとのことで、そちらにも行ってきました。濁水渓の支流・塔羅灣溪が荒々しく流れており、温泉街の一部は昨年の豪雨災害で流されてしまっているようでした。


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たどり着いた「記念堂」は草が生い茂り、苔むしていて、廃墟のようになっていました。でもそばに「モーナ・ルダオ故居」と書いてあって驚きました。ここは霧社以上に急峻な場所で、車を止めた場所から私はたった十五分ほどの山道を死にそうな思いで登ってきたのですが、セデック族はまさにこういう場所に暮らしていたのかと。しかもここから霧社まではかなりの距離があります。垂直に広がる世界の、その面積の大きさ。どういう暮らしが営まれていたのだろうかーー想像力が追いつきませんでした。

明治神宮の公式サイトでは、二代目の大鳥居を作るために台湾から巨木を運んだその顛末がなかば感動的な美談のように綴られています。たしかに、台湾の人々が、人によってその温度差はあれ、基本的に日本に対して親しみを持っていることは間違いありません。そして、私の知人や友人もふくめて「日本統治時代は台湾に益ももたらした」という人がけっこういます。それはそれで事実でもあると私も思います。それでも私は歴史を学んだ以上、どうしても「無邪気」にはなれず、常に割り切れないものを感じてしまうのです。

*1:高さ12m、幅17.1m、柱の直径1.2m、重さ13t だそうです。

*2:土呂久砒素鉱毒事件が起こった場所。




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