東日本大震災と福島第一原発事故のその年に刊行された、加藤典洋氏の『3.11 死神に突き飛ばされる』を、いまになって読みました。とても考えさせられる論考で、日本の核兵器政策、核燃料サイクル政策*1、対米従属政策などについて、あれから14年経ったいまでもその議論の重要性が変わっていないことに驚きと失望を感じます。
この本の半分以上を占める論考「祈念と国策」、そこに付された注(これだけでひとつの稿に起こせそうなほど長大です)にこんな一節がありました。
わかったことは、インターネットの言論圏に身を置くと、ますます、紙媒体のメディアの狭さ、公平性の欠如といった問題が、目につくようになるということである。このことは、一度、インターネット言論圏に身を置くと、もうそこから紙媒体の世界に舞い戻ることは、ほぼできなくなることを意味している。それほど、コントロールされない言論空間の風通しは、よい。確度と密度には欠けるが、情報の飛行距離、言論圏の広さにはただならぬものがある。(174ページ)
風通しのよい、インターネット言語圏の登場。2011年当時は、私もそう考えていました。あの加藤氏でさえも、あの頃はそう感じておられたのだなと、ここだけは隔世の感があります。ご案内のとおり、ここで加藤氏が期待を寄せておられたTwitter(現X)を始めとするインターネットの言論圏、なかんずくSNSは、アテンション・エコノミーとエコーチェンバーとフィルターバブルに蚕食され尽くして、もはや言論圏としての体と機能をほとんど失いかけているからです。
いっぽうで、加藤氏が指摘されている紙媒体メディア(特に報道・ジャーナリズム)の狭さや公平性の欠如は、いまもあまり変っていないように見えます。それでも私は、良質な紙媒体メディアはまだその役割を終えていないし、これからも私たち読者が育て続けていかなければならないと思っています。
インターネットの言語圏は、それまで一部の特権を持った人たちから発言や発信の機会と手法を広く解放しました*2。でもそれが十数年ほどでいわゆる「メタクソ化」をきたし、失望とあらたな実害を招いていることは否めません。もちろん、言論をもう一度エリートの手に戻せばいいわけでもないし、実際のところ、もうできないでしょう。でも、だからといって現状のような、誰もが好き勝手なことを言い合うだけのディストピアめいた言論空間も、問題がありすぎです。
もう少し抑制の効いた言語圏を作るためにはどうすればいいでしょうか。「言論の自由」や「表現の自由」が逆に桎梏となって、なかなか難しい問題です。ただ私は、誤解を恐れずに言えば、誰もが言いっ放しという状態から抜け出して、そこで発言する資格のようなものをお互いがもっと問いあうような、そんな仕組みや習慣が必要だと思います。たとえばYahooニュースのコメント欄には専門家による「公式コメンテーター」という制度がありますし、最近はAIによるコメントの取捨選択や、ファクトチェックみたいなものも始まっていますよね。
あとは、よく言われるようにネットリテラシーを涵養するための学びが急務ですし、それからやはり多少なりとも身銭を切って、真っ当なオピニオンを発信できる人やメディアを支援することが大切かなと。それもあって私は、紙の新聞を取り続けていますし、NHKの受信料も払い続けています。加藤氏がいまもご存命だったら、現在のインターネットの言語圏についてどう考え、どう書かれるでしょうか……拝読してみたかったです。
