『映像研には手を出すな!』の作者・大童澄瞳氏が「ライブ配信で笑い屋が欲しいと思うことがある」とおっしゃっていました。YouTubeの「積読チャンネル」にゲスト出演された際の発言です。
リアルタイムで笑ってくれる誰かがいると、めちゃくちゃ話しやすいっていう。いくら自分がおもしろい話をしてても、フィードバックがないとっていう、そういうのがあるんですよね。だから深夜ラジオとか聞いていると、構成作家がちゃんと合いの手を入れたり笑ったりとかしてくれているのが、本当に大事なんだと思って。
ああ、心から同感です。コロナ禍でオンライン授業を余儀なくされた時に、私もそれを痛感しました。こちらが話しているときに、笑ってくれたり、あいづちを打ってくれたり、なんなら画面の向こうでうなずいてくれるだけでも、ずいぶん話しやすくなります。そういったものが一切なく、相手が全員ミュートの状態、かつ無反応の状態でえんえん話し続けるというのは、確実に精神を蝕みます。
私はいまもオンライン授業を受け持つことがありますが、生徒さんのなかにはフィードバックどころか、画面に顔が半分しか写っていないとか、画面の奥の方にちっちゃく写っているとか、あるいは逆光でよく見えないとか、マスクで表情がほとんどわからないとか、さらには音声のみならず映像まで切って参加する方がいることもあって、そんな環境で話をするのはとてもつらいです。
大童氏も「コロナ禍のときのお笑いライブや、レコードで落語が流通し始めた初期の頃に収録で観客を入れずにただ淡々と話しているものなど、ネタはおなじなのに全然おもしろくない」とおっしゃっています。ゲラ、つまりよく笑ってくれる(よき反応をしてくれる)「質の高い観客」が必要なのだと。いやこれ、オンラインの場だけではないですね。実際に対面しての授業や会議などでも、まったく反応のない状態で話すのはしんどいです。それだけ自分の話がおもしろくない、ということなのかもしれませんが。
かつて通訳者の柴原智幸先生の授業に出た時、私たち生徒の反応がないことに対して柴原先生は「こちらがなにか問いかけたら、『はい』でも『うん』でも『わかりません』でも、なにか反応を返すべきです。コミュニケーションの仲立ちをする通訳者を目指すみなさんが、そこまでコミュニケーションに非積極的であってはいけません」とおっしゃっていました。以来私は、自分が聞く立場にあるときは、できるだけ反応するように心がけています。「うんうん」ってうなずくだけでも、話し手にとってはありがたいんですよね。
またこの動画の後半では、「作者の気持ちを考える」ことについて、こんなことも語られていました。
「作者の気持ちなんか分かるワケないじゃん」ってまあ、それは正しいんだけど、それを言ってていいのは小学生までで。小学生が「作者の気持ちなんか分かるワケないじゃん」って言ってたら、まあ、あ、ちょっとおもしろい子かなコイツはって思えるんだけど、大人になってまでそれ言ってる人がいたとすれば、それは物語を読んで理解できない人だっていうことなんで、ダメじゃんみたいなことを思うんですけど。批評ができない人かなと。
この「批評」が大切だというの、これも同感です。いまSNSを始めとするネット空間には罵詈雑言や不毛なマウント合戦などがあふれかえっています。ほとんど「通り魔」的とさえ思えるようなコメントやリプライが多すぎるのに疲れて私はSNSから降りてしまいましたが、あれも要は「作者の気持ちなんか分かるワケないじゃん→だからオレはオレの気の赴くままに言わせてもらうぜ」というような思考の放棄、ないしは批評の不在なんですよね。つまり、オンラインのコミュニケーションでフィードバックがないことも、「作者の気持ちなんか分かるワケないじゃん」も、いずれも発信者に対する敬意の欠如なのです。
ただそうは言っても、どうせほとんどは罵詈雑言やマウント取りや通り魔的コメントでしょとSNSを一様に見限ってしまうのも、そこで行われている多種多様なコミュニケーションに対する敬意の欠如なのかもしれません。なかには批評精神にあふれたやりとりだってあるはずなんですから。でも私にはもう、あの殺伐とした短文の行き交う空間、なかんずく「通り魔」的に言葉を投げつけては消えていく(それも匿名で)人が多すぎる空間に戻る気力はないです。
それにしても大童澄瞳氏の語り口はとても魅力的です。ほとんど冗語をさしはさまず、でも堅苦しくなく、それでいて言葉はきちんと選びながら話されていると思いました。頭の回転が速いんだなあと。『映像研には手を出すな!』はアニメで見たことがありますが、マンガの原作は読んだことがありませんでした。それでつい、既刊の1〜9巻をまとめて大人買いしてしまいました。
