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舞台「大地の子」感想〜首筋に“鉄”の冷たさを(2026年2月26日・明治座)

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※最初からしっかりネタバレします。

 

子供ながら夢中になったドラマ「大地の子」。原作もまた重厚で、ページをめくる手が止まらない傑作でした。戦中派の作家・山崎豊子が地道かつ真摯な取材をもとに書き上げた長編で、地の文には戦争に対する作家本人の怒りが静かに燃えています。この長編が舞台化されるにあたり、私が事前に気になっていたポイントは以下の2つでした。

  1. 日本語/中国語の違い
    • 原作では巧みなレトリックによって、ドラマでは俳優自身の努力と字幕の効果によって表現。演劇ではどうなる?
  2. スケールの大きな背景
    • 内蒙古から長江まで、まさに“大地”が舞台。労働改造所や製鉄所建設のスケールの大きさも特徴。制約があるなかでどう描かれる?

実際に観劇してみて痛感したのは、「違う、そうじゃない」ということ。これらは本作が目指していたものと比較すれば、とても些末なことであったといえます。日本語/中国語の切り替えは2場面ほど「カタコトの日本語」を挟むことで絶妙に表現され、日本語読み/中国語読みについては、たとえば原作では「長春」は「ツァンツン」とルビが振られていたのを「ちょうしゅん」と日本語読みにしたり、「同志」は「トンチ」ではなくわかりやすく「どうし」とするなど、細かい調整がなされ、腐心したことが察せられました。そして背景については潔い省略が所々に見られ、製鉄所は1回だけ登場し、ラストシーンの長江は大胆にカットして東京の設定に変更。すごい、最後の台詞にしてタイトル回収となる「私は、この大地の子です」の「この」を残したままライティングの効果で大地を顕現させることでやりきった…!*1

でも、本作において注目するべきことは多分、「それじゃない」のでした。以降、そんな感じでどうだったのかを書きます。①については帰りの電車で書いたふせったーの内容が元になっています。その都合もあって、以下、だ・である調になります。

 

 

①「信頼できない語り手」という衝撃〜張玉花/松本あつ子(奈緒)

奈緒さん演じる張玉花(ツァンユウホウ)/松本あつ子が語り手であることはわかっていたけど、最初は、語り手を担わせるために原作より理知的にチューニングされたのかなと思った(それでもゴツゴツと途切れるような話し方が真に迫って吸い寄せられた)。
さらに、童養媳(トンヤンシ)として育てられた婚家での様子が少しマイルドになっていて、何より姑がいたわるような言葉を使っていたり、玉花/あつ子が慈しんで育てられたという認識をもっていたりすることに、そうか張家の人間は原作では本当に🤮だから少し調整したのかな、つまり貧乏=卑しい人間性という図式をさりげなく否定したのかなと思ってしまった。

けどそれはたぶん違うんだと思う。

彼女は語り手を担っていたものの、婚家の薄暗い寝床でボロボロに病んで起き上がれない状態で「これがあたしの本当の姿」と観客に語りかける。そしてそこへ、妹を探し当てた芳雄さん演じる一心/勝男がとうとうやってくる。本作のクライマックスは一心/勝男と玉花/あつ子の激情ほとばしる再会だ。さらにそこで「言葉を持たない」玉花/あつ子が「本当は話したかったこと」としてモノローグで絞り出す【真実】こそが、この大作を演劇にして届けるにあたって作り手が目指したことではないだろうか。
玉花/あつ子が慟哭の中で語った半生、つまり想像を絶する辛い目にあい、誰にも優しくされず、人間らしく扱われてこなかったこと…その告白に衝撃を受けていると、恐ろしい疑念が脳裏をよぎった。最初に出てきた姑や白痴の夫との関係性は【嘘】なのではないか。彼女が、つらい境遇にあってついに感情も思考もなくしたことを繰り返し語るのは、単なる防衛機制が起こったことだけを言いたいのではなく、「あれはぜんぶ【嘘】でした」と観客に訴えているのではないだろうか。
そう考えると、トウモロコシ畑の出来事(本当にごめんなさい辛くて書けません)の描写のズレや、労わっていたはずの姑が一心に即効で金をせびる様子、つまり豹変したように見えることに説明がつく。
玉花/あつ子は語り手として観客の耳目を十二分に引きつけた上で最も集中力が高まった瞬間に【信頼できない語り手】に成り変わることで、戦争が1人の女性をどんな目に遭わせて闇の中で死なせたのかを、身を持って観客に突きつけたのだ。玉花/あつ子は苦しみの中で思考や感情を失い、社会と交わらない生活で「言葉」を得ることもなく、物語を十全に語りうる、【正しい語り手】になることはできなかった。【信頼できない語り手】にならざるを得なかったのだ。なんという悲しいことだろう。

②悲しみを受け止め、分かち合い、手渡す人〜陸一心/松本勝男(井上芳雄)

真正直な“受けの芝居”

芳雄さん演じる陸一心(ルーイーシン)/松本勝男は主人公ではあるものの「出ずっぱり」ではない。出ていても自分の思いばかり話す役柄でもない。そのぶん、受けの芝居がとても印象に残った。

上述の、玉花/あつ子との再会シーンは間違いなく本作のクライマックスで、言ってしまえば奈緒さんの玉花がすべてを持っていく。下手すれば容易にふっとばされてしまうだろうこのシーンを、芳雄さんは全力で真正直に受け止め、奈緒さんと力を合わせて素晴らしいものにしていた。また内蒙古の労改(ラオガイ、労働改造所)で日本語を教えてくれた黄書海(ホワンシュウハイ、浅野雅博)の「一杯の湯」のエピソードにも、声を振り絞るようにして号泣する。我が子のために身に覚えのない罪を自白した黄。知的で穏やかな語り口がかえって悲しみを強めるなか、一心は自分の痛みとして受け取り涙をこぼし、肉親、ひいては産土への思いを立ち上がらせる。いずれのシーンも、自分が起点にならない場面だったのがポイントだ。相対する人の言葉に耳を傾け涙を流す様子は、辛かったのは自分だけではないことを理解し、噛み締めていることを示している。悲しみを板の上で人々と分かち合うことで、客席の私たちにも静かに手渡してくれるようだった。次に述べる父子の関係もそうだが本作は普遍的な愛の物語でもあり、やはり芳雄さんは愛を体現する人なのだなと思う。

 

「お父さん」と「爸々」〜2人の父

そんな一心は2人の父と向き合う。中国で育ててくれた養父・陸徳志(誤字修正しました)(ルートウチ、山西惇)はドラマで観た爸々(お父さん:バーバ、原作のルビはパーパ)そのままで、人々から尊敬され、息子・一心にも深く敬慕される存在であることが伝わってくる。一方、実の父親として思いがけず邂逅するのが、宝華製鉄公司の日方(にちがた)の現地責任者であったはずの松本耕次益岡徹)。原作では回想でしか登場しない後妻・伸子のシーンを印象付けたのはその後の孤独を強調するためだろう(「仏さんの多い家」「私は家族に恵まれなかった」という原作にない台詞がある)。自責の念を抱えながら清廉かつ懸命に生きてきた日本の父の姿も切なく、心を揺さぶる。

一心のセリフで私が最も胸を打たれたのは、北京駅で出迎えてくれた父に向かって叫んだ「お父さん!」だった。我が身を削って直訴し、息子を救い出してくれた父に対する渾身の呼びかけだった*2。そしてもうひとつは、ラストシーンで日本の父に長春の脱出の顛末を語って聞かせるときの「爸々、妈々!」。同じ相手に対して日本語と中国語で呼びかけるこの2つの台詞はリンクしており、本来の場面に照らせばどちらも中国語で語られたものだ。原作では日本の父・耕次に対して「父さん」と呼びかけることをこらえる描写があり(4巻)、実際にカギ括弧の台詞のなかにはその表記は見当たらないのだが、劇中では自然に「お父さん」と呼んでいるように見えた。にもかかわらず、心の底から「お父さん!」と呼びかけられるのは、陸徳志ただ1人なのだと思った。血を問わない親子の絆に心を震わせつつ、日本へ帰ってこないかと呼びかける耕次の呼びかけが胸を打つものだっただけに*3、これもまたシンプルに、悲しい。

 

③首筋にひんやりと押し当てられる鉄〜これは現代の話

玉花/あつ子に戻ろう。悲しい語り手としての役割は、死したのちに床を起き出し、再び語り始めたときに完成する。彼女が持ち得ない語彙(ex.深海に眠るプランクトン)を駆使して、あくまでも理性的に、戦争の罪深さと取り返しのつかなさ、そして死者たちの無念を観客に訴えかける姿。栗山さん、やりたかったのは、「これ」だったんですね、と思った。

そしてラストシーン、長江のシーンが東京に置き換えられて「私は、この大地の子です」というタイトル回収がなされたあと、再び語り手としてそこにいた玉花/あつ子は、思いがけないことを口にする。

「それから39年後、宝華製鉄公司は、日中の合弁関係を解消した。大地の子は今、どこでどうしているのだろう」 *4

宝山鋼鉄という名前で上海に実在する製鉄所がモデルになっているのは知っていたが、この最後の台詞が放たれた瞬間、原作の時間軸を超越したことを知って動揺する(結末は1985年。作者の山崎豊子は2013年に没している)。しかも、日中友好の名の下に実現したそのプロジェクトは永遠ではなかった(経済的/政策的な事情はさておき、事実として2024年に終了した)。突然迫ってきた、“現在”と“現実”。「どこでどうしているのだろう」は、例えば一心は生きていれば90歳前で静かに中国で余生を送っているのかもしれないが、ここで言いたいのはそういうことじゃないはずだ。“現在”と“現実”と向き合うことを、観客に静かに促す台詞なのだ。

演劇の観客として「昔あった、忘れてはならない出来事」に向き合っていたつもりが、首筋に冷たい“鉄の棒”を押し付けられたような後味。今の二国間の関係が頭をよぎるのは言うまでもない。日中国交正常化と物語の大団円を象徴していた真っ赤な“鉄”は、戦後80年を過ぎた今、ひんやりと舞台に横たわり、私たちに重い問いかけを残したのだった。

 

 

3時間25分の上演を経ての帰宅、なかなかの時間でした。今日はこんなところで。他のキャストについて本文で触れられなかったのは注釈で。

本作の千秋楽までの盛況とご無事をお祈りします!

 

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『大地の子』1〜4巻(山崎豊子/文春文庫)。登場人物の中国語読みはこちらを元に補いました。*5

 

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風向きに翻弄されつつ開幕前にどうにか撮れました。

 

以下、注釈で書ききれなかったことに触れています↓

*6

*7

*8

 

 

*1:ちなみに私のどんぶり勘定では、現在と過去を行ったり来たりしながら重要箇所をうまく組み立てて、原作の25%くらいが語られたと見積もっています

*2:ミュージカル俳優の声量だった

*3:ここには超大胆な省略がある。来日中に禁じられた単独行動で日本の父の家を訪ねたことで自分を妬む同僚に機密書類を盗まれてしまい、またしても冤罪…という設定が全カット。この呼びかけはそれが解決した後のラストシーンであり、これからも党と国家のために働き続けたいが、またこんな目にあってしまうんじゃないのか、という一心の葛藤も背景にある。それを省略してもなお十分に胸に迫る訴えだった

*4:※うろ覚えです、ご容赦ください

*5:これは流石にプログラムに書いてほしい…!

*6:その他の感想だと、みなさんの「声」がとてもよかった。妻の江月梅(チァンユエメイ、上白石萌歌)の凛とした知的な声、黄書海(ホワンシュウハイ、浅野雅博)が歌って聞かせる木曽節※1、人民解放軍の幹部を体現する袁力本(ユワンリーペン、飯田洋輔)の朗々たる発声。養母の淑琴※2(スウチン、増子倭文江)、秀蘭(シュフラン/舞台ではシュウラン?、山﨑薫)も声だけでキャラが立っていてよかったなぁ…。

*7:※1木曽節→これ、浅野さん以外は影コーラス?録音かしら…。原作だと「さくらさくら」だったのを、カットしたシーンに出てくる木曽節に変えることで故郷=信濃をしっかり登場させるのがうまいなと思った。でも口笛のメロディとされる音楽には「さくらさくら」の動機がそのまま使われている

*8:※2貴重なコミックリリーフを本当にありがとうございます…!明らかにみんなホッとしてた😂




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