「二都物語」大千秋楽(7/13博多座)の日に画像でアップした「タイムライン」、たくさん見ていただいてありがとうございました。間に合ってホッとしました。
「タイムライン」の土台になったのは、こちらの原書に収録されているappendix(付録、追加資料)の中の「A Timeline」です。
原作の出来事はある程度ここで同定されており、これを手がかりに他の文献から歴史的事実を少し肉付けし、ミュージカルナンバーを対応させました。最後の3日間は本編(新潮文庫版)の記述から新たに作成しています。
冒頭の説明によると、「A Timeline」では小説に出てこない有名な事件は省略されています(This timeline excludes famous events of the French Revolution not described or alluded to by Dickens;)。
一方で、なんでカートンやダーニー、ルーシーがこんな運命に巻き込まれることになってしまったのかを考えていくと、フランス革命(1789年7月14日〜)の成り行きを知りたくなってくるものです(だって辛いんだもん!)。
そこで今回は、先のpost(の画像)で抜粋したポイントに加えて、フランス革命の具体的な史実と一緒に、ミュージカル「二都物語」の背景についてもう少しくわしく見ていきます。
*少し内容を更新し、高解像度で書き出しました(スマホ用のサイズ感です。ブログに載せると少し荒くなるね…)
ミュージカル「二都物語」タイムライン(ver.1.1)

タイムラインのポイント①ミュージカルで時系列が異なるところ
まずは、ミュージカルで特徴的だったポイントをみていきます。
エヴレモンド侯爵の暗殺は革命の9年前
ミュージカル化されるにあたり、出来事の“発生地点”をもっとも大きくずらされたのが、エヴレモンド侯爵の暗殺です。侯爵は、息子の命を奪った報復としてガスパールに寝首をかかれますが、これはミュージカルでは革命の勃発のきっかけとなる事件として配置されました。つまり1789年の7月頃の出来事となっています。
ところが原作では1780年の出来事として描かれています。時系列でいうと、ロンドンでの裁判の後、ダーニーが一時的にフランスに戻り、叔父の館で夕食をともにするシーンがあるのですが(ミュージカルの『♪議論』にあたる)、エヴレモンド侯爵は、なんとその翌朝に死体となって発見されるのです(もちろんやったのはガスパール*1)。一方、1幕終盤の『♪ガベルの手紙』で歌われる「♪お屋敷は焼け落ちて…」は、バスティーユ陥落後の1789年8月〜9月に農村部がパニックに陥った「大恐怖」のなかで起こったことでした。
ミュージカルでは、9年も前の出来事であった侯爵の暗殺を革命の端緒として位置付けることで1幕終盤の時間を圧縮し、『♪見えない場所で』から『♪明日が今日に』にかけて、民衆のエネルギーを一気に高める効果を上げています。そして何よりも、『♪おやすみ〜子どもたち』で、本来は年齢が大きく違うはずのリトルルーシーとガスパール少年を続けて登場させ、ロンドンで大切に慈しまれている子どもと、パリで非業の死を遂げた子どもを対比させることで、子どもが命を落とす世の中であってはならないというメッセージを投げかけているのです。
ミュージカルだけに描かれた、1780年のクリスマス〜「この星空」
すでに何度も書いていますが、「この星空」前後のクリスマスの出来事は、原作には一切登場しません。前述のように時期をずらして登場したイベントもあるなか、「クリスマスイヴ」「この星空」は、どうしてもタイムラインに当てはめることができず、当初、年号を空欄としていました。
ただし、ダーニーが裁判にかけられた1780年3月からダーニーとルーシーが結婚した1781年夏の間にクリスマスは1回しか存在しません。なので、あくまでも仮にですが、ミュージカルにおける「この星空」は1780年のクリスマスに歌われたと考えてよいと思います。個人的な感想ですが、プロポーズを受けたルーシーの「どうしてこんなに時間がかかったの?」というセリフについては、原作通り(1781年夏)であったとしても1年ちょっとですね。思ったより待たせてなかったです(ちなみに、プロポーズをする前に英国で足場を固めていくダーニーの描写は超しごできでカッコいいです)。
いずれにせよ、原作にまったくない要素を付加したという点で、「この星空」はミュージカルのクリエイティビティが最も発揮された点であるといえるでしょう。
タイムラインのポイント②登場人物の運命を左右した、革命の激化
最も込み入っていて重要なのが、劇中でリアルタイムに進行中だったフランス革命との関連です。
1幕ラストと2幕冒頭に詰め込まれた4年間〜1789年7月と1792年8月の蜂起
結論からいうと1幕と2幕の境目は時間が重なり合っていて、1幕ラスト『♪明日が今日に』から2幕冒頭『何も変わらない』にかけては、実に4年間もの出来事が含まれます。フランス革命記念日にもなっている1789年7月14日の「バスティーユ襲撃」は、この2つのナンバーいずれにも登場します(「♪目指すはバスティーユ!」/「♪見つけたぞ証拠を あの医者の独房で」)
一方、2幕冒頭の『♪何も変わらない』を注意深く観てみると(配信アーカイブありがとう)、このナンバーは、ドファルジュ夫妻が中心になる前半の「1789年7月14日」と、大道芸人たちがリードする後半の「1792年8月〜1793年12月」に2分割されていることがわかります。後半のセリフや歌詞を史実に当てはめると、以下のようになります。
- 「自由・平等・博愛、さもなくば死を!」→1793年6月頃〜パリ市民の自宅の壁に書かれた標語
- 「布告!フランスに戻った貴族どもの生命・財産は、全て共和国に没収される」→原作では1792年8月14日の布告(デクレ)、実際は1792年9月?→(追記)実際は1793年。作品世界ではずらされている
- 「新しいフランス共和国の市民諸君!」→1792年9月22日「共和国宣言」
- 「専制政治の死をお目にかけましょう!」→1792年8月10日「8月10日事件(王権の停止)」
- 「♪でもただひとつ違うことは血を流せー!」→1793年1月21日ルイ16世の処刑、10月16日マリー・アントワネットの処刑
- 「♪ギロチンで切り落とせ」→1792年4月25日、ギロチンによる処刑が始まる
この騒乱のさなかに、ダーニーを追ってきたマネット一家がパリに到着しますが(1792年9月、最悪のタイミング。後述)、ダーニーは実際は1年3か月にわたって収監されていたため、ルーシーとマネットがロリーに語る「チャールズが逮捕されたのよ」「明日法廷に呼び出されるそうだ」はそれぞれ1792年8月と1793年12月の出来事になり、ここでも時間が圧縮されてます。
この『♪何も変わらない』後半では先鋭化する革命がアイロニーをもって描かれますが、中心に据えられているのは1792年8月10日の「8月10日事件(8月10日の蜂起:ジュルネー)」だと考えられます。なぜかというと、この事件は「第二革命」とも呼ばれていて、民衆が蜂起してテュイルリー宮殿を襲撃し、王権停止に至らしめた事件だからです(8月13日にテンプル塔に投獄)。このとき中心になったのは、バスティーユ襲撃と同じくパリのサン・キュロットたちで、ドファルジュ夫妻はその急先鋒であるサン・タントワーヌ地区を牽引する存在でした(もちろんフィクション、原作小説『二都物語』において)。
革命期の作家レチフ・ド・ラ・ブルトンヌは『パリの夜 革命下の民衆』の中で「八月十日は革命を更新し、完成した」と語っています(岩波文庫,P232)。ついに絶対王政が打倒された意味で、8月10日事件は革命の大きな転換点だったのです。
つまり、1幕と2幕の境目には「バスティーユ襲撃」と「8月10日事件」という民衆による2つの実力行使が描き込まれているといえます。これは1幕終盤の『♪見えない場所で』において、ガスパールに復讐を示唆するマダム・ドファルジュが、侯爵の命を奪うという暴力によって自分たちが「今ここにいる」ことを示すことに始まり、2幕までを貫く濁流となっているのです。
ダーニーが帰国したのは史実からみて最悪のタイミングだった
王権の停止を知らなかったダーニー
上記で、革命の転換点となった1792年の「8月10日事件(8月10日の蜂起)」が、2幕冒頭の背景にあることを見てきました。改めて「二都物語」のストーリーに戻ります。ダーニーがガベルの手紙を受け取り危険を顧みずパリに出発してしまったのはいつだったのでしょうか。これはちゃんと小説内に詳細な日付が示されています。
1792年8月14日です。
待って…?、最悪じゃないですか…?
1792年8月10日に王権が停止されてるんですよ。元貴族のダーニーは、絶対に行かないほうがいいですよね???
ダーニーがパリ帰国を決断するシーンは、原作の中で第2部の最後(第24章)に描かれています。ミュージカルでは「ガベルの手紙」はマネット家気付としてさらっと届けられていますが、監獄からの手紙がそうやすやすとロンドンの一般家庭に届くでしょうか。原作によれば、当時、亡命してきた元貴族の連絡所になっていたのがテルソン銀行でした。パリの最新情報が集まっており(「フランスのいちばん信頼できる情報が真っ先に届いた」第2部第24章,P410)。わかりやすく言うとポータルサイト(物理)みたいな感じでしょうか。以下の説明なんて、ほぼほぼヤフトピのような機能を感じさせます。
あまりにも多くの質問が寄せられるので、ときに銀行のほうで最新ニュースを紙に一、二行書いて、テンプル門を通りすぎる誰もが読めるように、窓に張り出すほどだった。
ダーニーはなぜ帰国を決めてしまったのでしょうか。不幸なことに、ダーニーはこの日テルソン銀行でばったり会ったストライバーに死ぬほど煽られ、誇りを傷つけられています(ダーニーがその張本人だとは知らずに手紙の受取人=元侯爵を嘲笑)。さらに、老体をおしてパリに行こうとするロリー(なんと原作では78歳、ミュージカルでは68歳*2)と自分を引き比べ、恥じ入るような気持ちになります。
さらに、パリから舞い込んだガベルの手紙が、受取人の居所不明として銀行内に留められていました。手紙の存在に気づいたダーニーは、“知り合い”だから届けると言ってロリーから手紙を預かり、テンプル門の陰でそっとその内容に目を通すのです。
死地に陥った無実の囚人が、ダーネイの正義感と高潔さと家名への誇りに訴えかけていた。
ダーネイの心は決まった。パリに行かなければならない。
こうしてダーニーは、「磁石島」に吸い寄せられるようにパリへに向かうことになってしまいます。8月14日の夜に出発したダーニーは、8月10日に王権が停止されていることを、数日後に自身がパリで捕らえられるまで知るよしもなかったのです。
チャールズ・ダーネイは、王が獄中にあり、外国の大使はひとり残らずパリから出ていったことを初めて知った。
ミュージカルに戻ると、このシーンはマネット家のリビングで展開されます。ストライバーが読み上げた新聞記事「王は国外から兵力を借りてフランス軍を増強し、市民の蜂起に備えている」は、おそらく8月10日事件の前に、王がスイス人傭兵を雇って警備に当たらせていたことを指していると思われます*3。つまりまだ「王」が機能しており、ロンドンの面々は、やはり「8月10日事件の前の情報」に接していることになります。
いずれにせよ、ダーニーが帰国を決心した背景は原作では詳細に説明されており、ダーニーの高潔な人物像もあいまって納得できるものでした。と同時に、その決断は、ダーニーが最新の情報を知らなかったがゆえになされたものでもありました。インターネットがあればなぁ…!と思わずにはいられません*4。元貴族のダーニーが1792年6月21日の情報(ガベルの手紙,P.420)に基づいて8月14日にパリに向かうなんて、絶対にあってはならないことだったのです。
「九月の虐殺」とラフォルス監獄
パリに着いたダーニーは役人に捕らえられ、ラフォルス監獄行きを宣告されます。
「(前略)さて、エヴレモンド、きみはラフォルス監獄に送られる」
「なんということを!」ダーネイは叫んだ。「いったいなんの法律にもとづいて? どういう罪ですか?」
ミュージカルではドファルジュが担い、「彼をフォース監獄へ!」と宣言しています(La Force→翻訳によってさまざまな書き方があります)。
その後、1792年9月にダーニーを追ってマネット一家がパリに到着します。この日付もなかなか最悪で、民衆が複数の監獄に侵入して囚人を無差別に虐殺した「九月の虐殺」の最中でした(9月2日〜6日)。テルソン銀行パリ支店の中庭にロリーが見た「回転砥石」に群がる民衆の描写は、2幕冒頭の狂乱を彷彿させます(ロリーは、ルーシーに「見ないで!」と強く命じる)。原作で、ロリーがダーニーが収監されている監獄名を聞いて「ラフォルス!」と叫ぶのは、ラフォルス監獄もその過酷な現場であったからです。前述の『パリの夜 革命下の民衆』では、「九月二日から五日*5にかけての大量虐殺」の副題がついた章に、このような記述があります*6
「特権階級め!フォルス監獄送りだ、フォルス監獄送りだ!」
(中略)
気の毒に、アベイ監獄で言い渡される「フォルス監獄送り」という文句が、死刑判決であることを男は知らなかった。
現在では4日間の犠牲者数は1,300人とされていますが(『フランス革命の代償』ルネ・セディヨ)、ディケンズは本書の中で1万1,000人としています。
囚われて身を守るすべもない一万一千人の老若男女が民衆に殺されたこと、その四日間は残虐行為の闇に包まれ、彼女のまわりの空気も死臭で汚染されていたことをルーシーが知ったのはずっとあとで、フランスから遠く離れていたときだった。
ラフォルス監獄に赴いたマネットの尽力でダーニーの処遇はいくらかよくなるのですが、このときの使命に燃えるマネットの語りは、東宝再演で追加されたソロ『♪救われた命』を彷彿させます。こうしてダーニーは1年3か月にわたり収監されることになるのですが、運が悪ければ九月の虐殺で殺されてしまっていたおそれもあったのです。
激動の1793年〜恐怖政治とカートンの運命
革命裁判所と反革命容疑者法
1年3か月の収監を経て、ダーニーの裁判は1793年12月に行われました。ミュージカルでも原作でも、死刑判決後にカートンが颯爽と現れてルーシーを助けることは前の記事で触れたとおりです。1792年の「8月10日事件」のあと、革命はどのように進行したのでしょうか。
1793年をひとことで表現するなら、それは恐怖政治の始まりでした(※表現少し変えました*7)。1792年9月21に立法議会に変わる国民公会が開会され、翌日にフランス共和国が爆誕します。ここで台頭していくのがロベスピエールらが率いる急進的なジャコバン派です。他方、比較的穏健な派閥がブリッソ、コンドルセらの率いるジロンド派でした。
前年の12月にルイ16世が国民公会による裁判にかけられた際はまだジロンド派も力をもっており、即時死刑vs執行猶予の票数は380票vs310票と、そこまで大差にはならなかったそうです(『教養としてのフランス史の読み方』福井憲彦,PHP文庫,2025,296)。しかし、1793年5月31日にジャコバン派を支えていたサン・キュロットが国民公会に圧力をかけ、ジャコバン派はジロンド派を追放してしまいます。これによりジャコバン派の独裁、つまり恐怖政治が始まり、おびただしい数の人々が1792年4月生まれのギロチン(ラ・ギヨティーヌ)にかけられていきます。恐怖政治にまつわる1793年の主な出来事を掲げるとこのような感じです。
- 1793年1月 ルイ16世処刑
- 1793年3月 革命裁判所設置
- 1793年9月 反革命容疑者法制定
- 1793年10月 マリー・アントワネット処刑
反革命容疑者法というのは反革命容疑者逮捕令ともいわれ、革命の敵を幅広い定義で定め、簡単に捕まえてよいとする布告(デクレ)で、恐怖政治の象徴の1つです。ダーニーが最終的にコンシェルジュリーで裁判にかけられたときの罪状も「共和国の敵」でした。
以上より、ダーニーが裁判にかけられ、カートンがパリに到着した1793年12月というのは、恐怖政治の嵐が吹き荒れていた最悪の時期だったことがわかります。
「民衆的テロル」と、恐怖政治の犠牲者数
この時期のパリの動きを、ディケンズは以下のように記しています。
首都パリに革命裁判所、フランス全土に四万から五万の革命委員会ができ、反革命容疑者法が成立して、自由と生命の安全がことごとく奪い去られ、無辜の善人が罪深い悪人の手に引き渡された。監獄は釈明の機会すら与えられない無実の人々で埋まった。それらが秩序として確立し、たかが数週間で、太古の昔から決まっていたことのようにまかり通った。
ミュージカルでは伏線となる歌詞やセリフがたくさん散りばめられていますが、まさに1幕のロンドン(オールド・ベイリー)での『♪裁判』に出てくる「♪この手に権力を握るヤツが作る/それこそ法律というものさ」「♪どんなことでもまかり通るのさ」は、2幕の裁判を予言したものとなっています。また「無辜の善人」という表現は、この後に登場するお針子を連想させます。
民衆が無秩序に人を裁いていた革命下の裁判について、フランス革命研究の第一人者であったジョルジュ・ルフェーヴルは、以下のような説明をしています。
革命的結集体は盲目的なのではなく、自分が悪いなどとは考えてもいない。それどころか、自分たちは事柄の何たるかをわきまえて正当に処罰しているのだと確信しているのである。九月の虐殺者たちですら、ときには裁きの場を整えたりしたものだった。革命の全過程を通じて「民衆法廷」の考え方が散見される。
『革命的群衆』(G.ルフェーヴル,二宮宏之訳,岩波文庫,2007,P50)
歴史の本ではどうしても国民公会でしのぎを削ったブルジョワたちの動きが中心に書かれているのですが、ミュージカル「二都物語」にフランス人のブルジョワは1人も出てきませんし(このあたりは「1789」と対照的ですね)、原作には「ロベスピエール」という名前も一切登場しません。パリで実力行使をしていたのは、やはり民衆だったのです(民衆的テロルと表現されます)。そしてジャコバン派を支持し、国民公会に強い影響力を持っていたのはサン・キュロットたち、つまり「二都物語」におけるドファルジュ夫妻の勢力でした。サンタントワーヌの彼らの酒店にカートンが潜入して計画を盗み聞きする場面がありますが、原作のカートンはフランス語がわからない振りをするのに、店に置いてあった新聞を活用します。
カートンは、フランス語の単語ひとつ聞き取るのもむずかしいといった顔で相手を見たあと、やはり強い外国訛りで応えた。「ええ、マダム、そうです。イギリス人です」
ドファルジュ夫人はワインを取りに勘定台に戻った。カートンはジャコバン新聞を手に取り、意味を理解しようと頭を絞っているふりをした。夫人が「本当さ、エヴレモンドにそっくりだ」と言うのが聞こえた。
(フランス語がわからない振りをしているカートンがいじらしくて泣けます…。あと、サンタントワーヌを歩き回ってわざと「エヴレモンドそっくりの英国人がいた」と印象付けることでダーニーの脱出の後押しになると考えているんです。。。)
このように、民衆の暴力がうずまくパリにやってきたカートンは、大きくまとめると恐怖政治の犠牲者であったと位置づけることができます。カートンとお針子が命を落とした1789年12月の日付はわからないのですが、同月の14日に革命政府が民衆的テロルを抑制する方針を打ち出しています。ダーニーの裁判がその後であったなら、内容も少し穏やかなものになっていたのかもしれません(でも希望としては1%くらいかな…)。
テルミドールのクーデターによってロベスピエールが失脚するのはその7か月後、1794年7月27日のことでした。恐怖政治が終わるまでに各地の革命裁判所で死刑を宣告されたのは1万6594人とされ(『フランス革命 歴史における劇薬』遅塚忠躬,岩波ジュニア新書,1997.P153)このうちパリで処刑された人の数は、1862名にのぼります(下記)。
多いときには連日五、六〇人の犠牲者が荷馬車で運ばれてきた。パリでは、革命裁判所が活動を始めた一七九三年三月から、「テルミドール九日のクーデタ」でロベスピエールが没落する一七九四年七月までに、一八六二名が処刑された。(中略) 斬首されたのは、アリストクラートよりも職人や小商店主のほうが多く、狂信というよりは惰性から処刑がおこなわれた。
(原作では同日に処刑されたのは52人となっており、この記録とも一致します)→(追記)人数については次の記事を見てね
フィクションではありますが、1793年12月n日に処刑されたお針子とカートンは、恐怖政治のパリにおける犠牲者数1862名の中にカウントされていたと考えてよいでしょう。
その日の14時頃にコンシェルジュリー監獄で初めて言葉を交わし、手を握ったまま過ごした2人が革命広場(現コンコルド広場)で22番と23番として処刑されたのは、出会いからわずか1時間後、15時頃のことでした。
群衆のざわめき。振り仰ぐ数多の顔。まわりの大勢が分け入ろうと押し合うあまり、ひとつの大波のようにふくれ上がって迫ってくる足音―それらすべてが一閃して、消える。「二十三」
まとめ
反キリスト教化運動と対比されたカートンの選択
はあ、令和7年の日本にそろそろ帰ってこようかしらね…(1793年のコンコルド広場から目を背けながら)。
最後にちょっとだけ付け加え。前の記事で、わからないなりに勉強して書いた、キリスト教的な考え方についてです。恐怖政治の下では非キリスト教化が進んでおり(教会が弾圧された)、1793年11月10日に行われた、神の代わりに理性を崇める「大市民祭(理性の祭典)」は反キリスト教化運動のクライマックスであったとされています(『フランス革命の代償』)。カートンとお針子の死は、それからだいたい1か月後の出来事でした。カートンは、人生の最後にキリスト教的な善性を発揮しています。「二都物語」におけるディケンズの筆致は革命の暴力に否定的でしたが、当時の非キリスト教化の動きについても、カートンとお針子の姿を通じて批判しようとしていたのかもしれないと、少し思っているところです。以下でイギリスの文学者アンドルー・サンダーズが述べている「注意深くキリスト教のコンテクストの中に置いた」という表現がとても腑に落ちました。
カートンの自己犠牲は否定ではなく、肯定として読者の前に現れる。そして、ディケンズはそれを注意深くキリスト教のコンテクストの中に置いた。(中略)カートンの犠牲を快楽の追求だとか自己満足に基づくものとみなすのは、功利主義者でもよほど歪んだ者だけであろう。
『時代の中の作家たち4 チャールズ・ディケンズ』(アンドルー・サンダーズ著,田村真奈美訳,彩流社,2015.P.243)
現代の日本でミュージカル「二都物語」を観るということ
もともと私、大学受験の科目として世界史が好きだったんですが、観劇前にフランス革命について覚えていたことといえばバスティーユ襲撃とその後になんかロベスピエールが恐怖政治をやった、ということくらいでした(ひどい記憶力)。それがなぜこんなにもフランス革命の背景を知ることに駆り立てられたのか。それは、あの2幕がとにかく辛かったからです。「1789」を観た直後だというのもあったけれど、民衆の暴走に拍手を送ることを強いられるあの居心地の悪さは忘れられません。しかし、これぞ演劇の力なのだと思います。
そして私は昨日(7/19)のうちに期日前投票を済ませていたのですが、投票箱に1票を投じるとき、今までの選挙とは違う感慨がちょっとだけありました。フランス革命が成し遂げたものの1つが普通選挙だったからです(当時は男子のみ)。先に少し引いた書籍『フランス革命 歴史における劇薬』の中で遅塚は、恐怖政治で提唱された生存権などが日本国憲法にも継承されていることに触れて、こう述べています。
こうして、現代日本の私たちは、あの恐怖政治の血まみれの手からの贈り物を受けているのです。
『フランス革命 歴史における劇薬』遅塚忠躬,岩波ジュニア新書,1997.P169
改めて、ミュージカル「二都物語」を現代の日本で観る意味を考えました。そして大楽のカテコで井上芳雄さんが語っていた「シドニー・カートンのような人が死ぬという決断をしなくていい世の中になったら…自分たちの手でもしていきたいなと、やりながら思っておりました」という言葉を、いち観客として胸に刻んでいたいなと思います。
配信アーカイブ最終日、私の「二都物語」、これにて(ほぼ)おしまい!宗教と歴史、2本書けたので満足です。あとは補遺としてスネアドラムのことをちょっとだけ書きます(諦めてない🥁)。
二都物語についてこれまで書いたもの↓
引用・参考文献
- Jill Santoriello: A Tale of Two Cities: A Musical(Samuel French,Inc., 2010)
- チャールズ・ディケンズ 著,加賀山卓朗 訳:二都物語(新潮文庫,2014)
- Charles Dickens: A Tale of Two Cities(All the Year Round, 1859 / Penguin Classics,2000)*Kindle版 ★これにA Timelineが載っています。ぜひ!
- 福井憲彦:教養としてのフランス史の読み方(PHP文庫,2025) ★一番最初に概略を掴みました
- レチフ・ド・ラ・ブルトンヌ 著, 植田祐次 訳:パリの夜 革命下の民衆(岩波文庫,1988)★革命の様子を「観察」して書いたものとされます。けっこう想像もあるらしいけどその部分は訳出されていないそうです(本書は抄出)。
- 遅塚忠躬:フランス革命 歴史における劇薬(岩波ジュニア新書,1997) ★青少年向けでやさしい語り口です
- ルネ・セディヨ 著, 山﨑耕一 訳:フランス革命の代償 (草思社文庫,2023)*kindle版 ★どれだけのものが失われたかを数字でみる本
- G.ルフェーヴル 著,二宮宏之 訳:革命的群衆(岩波文庫,2007)
- アンドルー・サンダーズ 著,田村真奈美 訳:時代の中の作家たち4 チャールズ・ディケンズ』(彩流社,2015)
- Webサイト「世界史の窓」
-
ジャパンナレッジ「フランス革命」(サンプルページ)
- 在日フランス大使館「フランスを知る―フランス共和国のシンボル」
