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不要な続編に必要な物語の作りかた:『ズートピア2』について





 しかし続編というものは、もしお伽噺の最後のページにつづく幸福な時代を描こうと試みるならば、それは必ず誤りである。


    ――ピアズ・ポール・リード、古澤安二郎・訳『ベルリンで愛した女』



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もちろん、ぼくらも大人になったのだけれど。



あれから九年と八ヶ月が経った


恥知らずな続編商法を宣言したCEOボブ・アイガーのことは忘れよう。いきなり辞めたジョン・ラセターのことも忘れよう。そのラセターの辞任で、急遽CCO*1を押しつけられてすぐコロナ禍に見舞われた挙句『ストレンジ・ワールド』と『ウィッシュ』の大不振の責任をひっかぶって飛ばされた哀れなジェニファー・リーの悲劇も忘れよう。「今」は2020年代でもはや甘美さを伴わず、きらめくのは思い出だけだ。


ここ十年のディズニーにおける最良の思い出は? そう、『ズートピア』だった。

もちろん、ズートピアとは政治的な物語であるのだけれど。



四六時中、ウサギが走っている。ときに追い、ときに追われ。

前作でメリウェザー市長の陰謀を阻止し、一躍ズートピアの英雄となったジュディとニックのコンビだったが、その後はトラブルを起こしてばかりで署内で疎まれるようになっていた。

そんな折、ジュディとニックはズートピアの創設者であるオオヤマネコの一族の暗い秘密に触れてしまい、濡れ衣を着せられ身内であるはずの警察から追捕される身となる。逃げつつも、ふたりは事件の真相を探るためにかつて殺獣の汚名を着せられてズートピアを追放されたヘビ一族の末裔を追う……。


本作はつねに走っている。ノワールを意識した『1』ではまだ聞き込みなどの捜査パートが多かったが、『2』では八割がたアクションしている。このウサギは、なにをそんなに急いでいるのだろう? なにから逃げようとしているのだろう?


ひとつはおそらくアメリカという現実から。


九年前、ズートピアアメリカ合衆国の戯画として描かれた。だから、今回もわたしたちはそのように読みうる。

たとえば、オオヤマネコとヘビにまつわる陰謀に、先住民からの収奪によって築き上げられたアメリカ合衆国の歴史を見ることができる。

悪役であるオオヤマネコは自らの住環境に適した寒冷地を拡張することで、ナワバリを広げることを目論む。ナチスドイツはかつてアーリア人を「北方人種*2」と自認し、その白さを北欧の雪景色と関連付けたが、そうした「寒いところからやってくる悪い白人」のイメージ的な連想がそこではなされている。

一方で、抑圧される側である爬虫類たち(かれらは文字通り、第一作目から「排除」されていた)に対応している人種は、当然、マイノリティだ。具体的には、アジア系とアフリカ系。ズートピアから追放された彼らはマーシュマーケットと呼ばれる桟橋でできた河川沿いの集落にたむろしている。共同監督兼脚本のジャレド・ブッシュはマーシュマーケットについて、「東南アジアの水上市場とバイユー(アメリカ南部の湿地帯で見られる水上式住居)」をモデルにしていると証言しており、さらにラスというセイウチはいかにも南部人っぽい風貌とキャラをしていて、爬虫類たちは隠れて『罪人たち』*3に出てきたようなクラブに通う。極めつけは、メインキャラとなるヘビのゲイリーの声が、ベトナム系のキー・ホイ・クアン*4であること*5



正直に告白するならば、このあからさまさには少々驚かされもする。

『1』において、動物の種と人種との直接的な照応は慎重に避けられていたふしがあった*6。なのに、『2』においてはむしろわかりやすいほどにその対応が出ている。構図が引かれている。かつては曖昧に抽象化されていた、アメリカの姿が否応なしにつきつけられている。*7


九年。

九年の歳月がこの変化に刻まれている。

2016年3月から2025年11月まで*8のあいだに大統領は三度変わった。オバマからトランプへ。トランプからバイデンへ。バイデンからまたトランプへ。

政治の振り子が右へ左へと振れていくあいだに、世の中は決定的に変化していった。映画界も、ディズニーも、そしてズートピアもまた変わった。わたしたちはもはや動物に人類の問題を託さない。わたしたち自身が動物なのだ。なんという狭い動物観。なんという貧しい人間観。

でも、そうせざるを得ない。2025年には、もはや何層にも織り込まれた隠喩の綾は失われた技術だ。


ジュディ・ホップスは、そうした政治的言及の気恥ずかしさから遁走しているのかもしれない。『1」ではあんなにおかしかったスピード狂のナマケモノの再登場シーンがトロくさくおもわれてしまうほどに。

アクションによる即物的なスペクタクルは、現実世界のあらゆる問題を宙吊りにし、観客を眼の前の画面に釘付けにする。それは映画の詐術ではなく、豊穣さだ。

観客も現実から逃げたくて映画館に来ているのだから、現実から逃げようとしている映画と同調するのは自然の有り様だろう。


ともあれ、ズートピアは変わった。


では、ジュディとニックは?


(注意:ここから『ズートピア2』に関する重度のネタバレが含まれます)

もちろん、ウサギは走るし、キツネは遅れるのだけれど。



『1』を要約すれば、「偏見を克服し、なりたい自分になる」話ということになる。『2』のテーマは、「異なる他者といかに共存できるか」だろうか。

流れとしては理に適っている。ジュディとニックは『1』でそれぞれの内なるコンプレックスやトラウマを克服した。そして、『2』ではバディとしてたがいをより深く識っていく。相互理解。他者との出会い。共存。アメリカンドリームのあとには、ご近所付き合いという現実が待っている。

相互理解の過程で、やがて乗り越えるべき段階として、ジュディとニックのあいだには不和が生じる。映画的にはそれはズレとして描かれる。ズレの出方は作品もよるが『2』のそれはテンポの噛み合わなさとして表出する。

ジュディとニックの行動は序盤からだんだんズレていく。正確には、ニックは一歩遅れる。あるいはジュディが先に行ってしまう。

冒頭のアクションシークエンスで先にヘビの存在に気づくのはジュディだし、パートナーセラピーではジュディが先にべらべらとしゃべりだし、事件の予感を嗅ぎつけて謹慎を破ろうとニックを誘い出すのもジュディの側で、ガラでは重要アイテムである日記にジュディが先んじて触れる。

マーシュマーケットの酒場から逃げ出すときの水中トンネルで、ニックはヘビを追いかけてひたすら先行しようとするジュディにやっと追いつくが、そこで決裂が決定的となり、山小屋のシークエンスで分断されてしまう。そこからは物理的にもおたがいバラバラに行動せざるをえなくなってくる。


なぜ、ウサギはキツネの前を走るのだろうか。

それはジュディの頭にはいつも事件の解決が最優先に来るからで、眼の前に重要なてがかり(たとえば、ヘビ)がいれば、がむしゃらに追ってしまう。

逆に、ニックの最優先事項はジュディだ。だからこそ、水中トンネルのシーンでほとんど命を省みずに泳ぎ続けようとするジュディを溺死寸前で救ってみせたし、高所恐怖症であるにも関わらず、二度も高い場所でのアクションを行い、クライマックスでは命すら投げ出す。そして、かたやジュディはそのときには事件の命をかけてそのとおりに死にかけている。

こうした思惑と行動のズレが、本作において多層的で豊かなアクションシーンを生んでいる。
かなりとんでもない技巧だ。ひとつのシーン内で異なる行動基準と目的を持つ複数のキャラクターが動けば、場面は複雑でおもしろくなりはするのだけれど、そのぶん画面がうるさくなる。そこを、どうやったかは知らないけれど、うまく破綻せずに整理して見せられるのは腐ってもディズニーの底力だろう。


また、アクション以外の部分でも互いのズレを演出するのがうまい。
第一作目は執拗なまで反復を特徴としていた*9が、そのときにもっとも印象的に使われたニンジン型の録音機器が今回も活躍している。『1』ではニンジンレコーダーをやりとりすることでふたりの結びつきを描いたが、『2』ではそれが破壊されてしまうことでふたりの決裂の取り返しのつかなさが表現される*10


そうして、ふたりのズレは「違い(Difference)」として物語に回収され、やがてテーマへと昇華される。

ただただギャグ満載の狂騒的なアクション映画に見えるかもしれないけれど、場面設計やキャラ配置も含めて、『1』に劣らずソリッドにしあがっている。

もちろん、続編では、物語がヒトからキャラへと移行するのだけれど。



バイロン・ハワードとジャレッド・ブッシュの監督コンビのインタビューを読んでいくと、常にジュディとニックというキャラクターとしてのふたりに焦点をあて、そこから物語を引き出そうと苦心していたような印象を受ける。

そうした態度は、おそらく『2』がかれら個人にとって語る必然のない物語であったからだろう。たとえば、バイロン・ハワードは『1』のときのジュディの上京シーンにかつての自らの姿を重ねた。そもそもからして、ハワードがラセターに対して「ディズニーの伝統である動物ものがやりたい」と訴えて始まった企画だ。

動物主人公は『ズートピア』で、もうひとつやりたかったミュージカルは『ミラベルと魔法だらけの家』で実現し、オリジネーターであるハワードとしてはやることがなくなってしまったのかもしれない。


続編を作るのはなぜかといえば、まず第一にはカネのためだ。それはピクサーの創設者であるエド・キャットムルすら認めている。続編とは、新規IPというギャンブルに毎回は手を出せない巨人が長期的に財政的環境を健全に保つための、一種の必要悪だ。

だが、クリエイターは作る以上は創意を発揮してしまう生き物でもある。

ピクサーでは『ファインディング・ドリー』にしろ『インサイド・ヘッド2』にしろ、続編を作るさいにはかならず「語るべき物語が残っていたから続編を作った」というようなことをいう。ウソかホントかはわからない*11。ウソでも「絶対に作る必要があった」と語るのがトップたる監督のつとめなのだろうが、実直なハワードにはそれを口にできない。

いちおう、『1』の公開時から続編の可能性は語られてきたし、『ミラベル』制作時にハワードとブッシュといっしょに『2』のロゴをすすんで作った、というエピソードは伝わっている。だが、どこまで「『2』が存在する必然」に真剣であったのか。


そう、九年だ。

この九年がバイロン・ハワードを長編監督作四作*12の押しも押されぬせぬディズニーの大御所にしたし、2016年時点で入社五年目の外様社員にすぎなかった*13ジャレド・ブッシュをジェニファー・リーの後任としてCCOへと押し上げた。どちらもスタジオを背負って立つベテランになったのだ。

責任ある大人、というよりは長老として、年一本ペースで五億ドルを稼ぐ作品を作りつづけるという狂った要求に答えつづけねばならかった。そのうえ、『2』の制作がスタートした2022年からの二年間は、ジェニファー・リー体制下で『ストレンジ・ワールド』と『ウィッシュ』という一億ドル超の損失をつづけて記録してしまった。

後がなかった。

スタジオを守るためには。夢と魔法の王国を保ちつづけるには。*14


そもそも技術的にも、ジュディとニックは監督や脚本家の個人的な感情を挿入できる存在ではなくなってもいた。
この九年のあいだに各所でキャラクター展開が行われ、上海ディズニーランドでは専用エリアまで作られた。なにより、ひとつの映画作品としての完成度の高さゆえに独立した「キャラクター」を確固として持ってしまった。

すなわち、ジュディとニックはかれらのための物語を必要とするようになっていた。

ブッシュは「『2』の課題は、ミステリーがキャラクターの物語を決して上回らないようにすることだった」と語っている。キャラクターを、主人公たちを中心にすえて、彼らのために物語を作り上げるということ。

物語の生まれる苗床がヒト(作り手)からキャラへと移った。

それが『1』と『2』における最大の違いなのではないか。


ちなみに『1』ではほとんど破綻寸前まで制作が難航したのだが、『2』ではほとんどつまづきなく順調に進行していったという。『1』のときは、ハワードが「陰鬱なノワール」というビジョンに、つまりは「自分」に固執したのが遅滞の原因だった。だから、作者の自我を必要としなくなった『2』が滞りなく作られていった。

『2』に感じられるある種の欠落も、そこに起因するのかもしれない。ガチガチに練り上げられた脚本に、ハワードの個人的な執念と挫折がのったからこそ、『1』は「よくできたエンタメ」以上のなにかになった。『2』だってよくできてはいる。できてはいるのだが、どこかが寂しい。

しかし、九年と八ヶ月だ。思い出は遠くあればあるほど輝きを増す。
ノスタルジーのフィルターが『1』を過大に評価させているところもあるのだろう。
ウサギがあんなにも必死で駆けていたのは、そうか、追ってくる過去から逃げるためだったのかもしれず。


おまけ

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2016年にいくつか書いたズートピア関連の記事の置場。
『2』も公開当日に書き散らすばかりではなく、いずれきちんと整理したい気もするけれど、それほどの元気を今も持っているか自信がない。九年だ。何度もいうように。

*1:Chief Creative Officer

*2:20世紀前半に優生思想と結びついて差別の温床となったイデオロジックな人類学的分類

*3:ライアン・クーグラー監督

*4:彼自身、ベトナム戦争で故郷を追われた難民でもあった

*5:ゲイリーに関していうのなら、本作の彼の立ち位置は失楽園のヘビの反転でもある。ここにも「白人的な物語」への転倒がある

*6:もちろんインタビューでは今回も九年前同様、関係者は国内の政局や国際情勢に関して直接的な言及を行っていない

*7:いちおう、ブッシュは「敵役が寒いところに住むオオヤマネコなのは、寒さに弱い爬虫類をメインに据えたときに逆算してできたもの」]というような言い訳くさいことをいっている。https://www.polygon.com/zootopia-2-preview-director-interviews-jared-bush-byron-howard/

*8:いずれも北米における公開月

*9:今作でももちろん要素やアイテムの反復はよく用いられている

*10:そして、もちろん、ラストでは修復され、新たな声が吹き込まれることで新しい関係の再構築されたことが表現される

*11:すくなくとも、『ドリー』のアンドリュー・スタントンについては本気だったようにおもわれる

*12:いわゆるナイン・オールドメンが引退した80年代以降の人物としてはドン・ホールやジョン・マスカーに次ぐ。

*13:『1』でのブッシュはもともと作品におけるストーリー部門の長であり、制作の難航に伴って助監督相当の共同監督(Co-Director)に引き上げられた。それが『2』では原案のハワードを差し置いて筆頭監督してクレジットされている。

*14:もっともディズニーランド以降、アニメ映画はディズニーのメインの収入源ではなくなっている。2021年度の統計では、ディズニーにおけるメディア&エンターテイメントの総売上約500億ドルのうち、映画全般を扱うウォルト・ディズニー・スタジオ関連の売上は90億ドル。対してパーク関連事業は160億ドルを占める。アニメ映画はパークでグッズを売るためのキャラクターが育まれる土壌だ。https://www.statista.com/topics/1824/disney/#topicOverview




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