And don't feel sorry
About the way it's gone
And don't you worry
About what you've done
No, no, remember, remember
The fifth of November
"Remember" John Lennon
アーキテクト曰く
「さて今言ったように、彼女は偶然にも、彼らが選択という行動を与えられている限りは、被験者の約99パーセントがプログラムを受け入れる、というソリューションを発見したのだ。それが無意識のレベルに近い選択だと気が付いたとしても、ね」
つまりそれがいまどきの「管理社会」の在り方というやつであり、将軍様を頭領に戴くご近所さんならいざしらず、「ぼくたちの管理社会」は秘密警察がドアを突き破って部屋に突入してきたり、親兄弟が密告したりするプリミティヴな支配の世界ではない。それはamazonで物を買う瞬間にやりとりされる情報と情報のゆるやかな結びつきであり、物が流れる時に一緒についてくるRFIDであり、Nシステムであり、ビルの監視カメラであり、バイオメトリクスによる認証であり、セキュリティであり、そうした遍在する様々を繋ぐネットワークだ。そこでぼくたちは一見自由で、選択できる生活を送っているように見える。
というわけで、「Vフォー・ヴェンデッタ」が描く社会は、そのような今時の管理の在り方ではない。それは管理というよりは支配だ。「マトリックス・リローデッド」が「支配(ルール)」ではなく「管理(コントロール)」の物語であったようには、この「Vフォー・ヴェンデッタ」は、「ぼくたちの」物語、「いまどきの」物語、ではない……ように見える。一見。
では、この映画は「ファッションとしての」管理社会なのだろうか。「リベリオン」がそうであったような。「イーオン・フラックス」がそうであったような。
たしかに、この映画は露骨に「1984」を参照している部分がある。独裁者たるサトラー議長(え〜、多分ギャグだと思うのですが、この独裁者サトラー議長、演じているのがジョン・ハートです。そう、「1984」で支配される側だった主人公スミス君として、毎朝ラジオ体操をしていた彼です)は巨大なスクリーンから語りかけるし、ユートピアとしての田園のイメージも一瞬登場する(閉息した都市に田園を対置させる方法は、「1984」のものだ)。なんといっても舞台はロンドン、我らが王都エアストリップ・ワンなのだから。
ここまでお膳立てが揃っていると、この映画も「ファッションとしての管理社会」、過去の管理社会映画を素材として使った、倒錯した意味での「懐かしい未来」ものだと言ってしまいたい衝動は強い。こんな独裁者はあり得ないし、こんな秘密警察はあり得ない、と。アウシュビッツを露骨に連想させる収容所。派手すぎてあり得ない独裁者の演説。
しかし、にもかかわらず、この映画は最近流行の「スタイルとしての管理社会」にはなっていない。この映画には「かつてあった絶望」へのノスタルジーは存在しない。
なぜなら、この映画は、ガチだからだ。
"Behind this mask is an idea. And ideas are bulletproof."
V for vendetta
「このマスクの奥にあるのは理念なのだよ、ミスタ・クリーディ。理念に銃弾は効かない(ブレットプルーフ)からね」
まず、この映画には建築的な意匠がほとんど使用されていない。議事堂等のモニュメンタルな建築はもちろんのこと、市街や部屋に至るまで現在の英国の風景が使用されており、「ファッションとしての管理社会」映画が、そのファッション性をより強く打ち出すために選ぶ、巨大だったり無機質だったりする権力的な建築がほとんど登場しない。かといってそこは「1984」のような謎の爆撃にさらされた廃墟でもなく、デッドテックな混沌でもない。
この映画に選ばれた風景はとことんいまの英国で(というよりも英国過ぎて笑ってしまうぐらい英国すぎ)、それは秘密警察が暗躍する独裁社会であるにもかかわらず、「いま、ここ」のぼくらの社会と映画の社会を建築的に隔てる操作がほとんど行われていない。この映画には低所得者層の住宅が登場し、普通の家庭の普通のリビングが登場し、イギリスといえばこれ、のパブで老人たちが一杯ひっかけている風景までが登場する。
リドリー・スコットは「ブレードランナー」でタイレル社長の部屋を設計するにあたり、とにかく巨大な空間を目指したそうだ。巨大な建築は人間を萎縮させ、ちっぽけな存在に見せるから、だそうな。それはもちろん、シュペーアを見るまでもなく、ファシズムの、いや、権力と結びついた建築が備える特徴だ。そして、「ファッションとしての管理社会」映画もまた、そうした権力的な建築を「異世界の構築」に積極的に利用してきた。権力的な世界を「見せる」ために権力的な風景を見せる。ベルトリッチの「暗殺の森」がファシズムを表現するためにイタリアン・ファシズム建築を総動員したように。視覚メディアである映画にとって、建築というのはすぐれて映画的な道具だからだ。
しかし、この映画はそうした「建築の力」によって風景を権力的に装飾しない。あくまでもいま、ここの風景の中で、支配と管理が行われる。
いま、ここの風景として語られる、古典的な支配と抑圧の物語。これがこの映画の奇妙な点だ。この映画はこの古典的な独裁社会を、あくまで「いま」の物語として語る意思を見せる。「リベリオン」が古典的な抑圧にふさわしい、古典的な建築を用意したような「我々との世界の切り離し」を、この映画は行わないのだ。
それが、この映画がガチだということだ。
この映画は、この物語を、あくまで現在の、我々の物語として語る。にもかかわらず、それを原作が書かれたサッチャリズムやレーガノミックスへの理解不足(日本人にはわからないよね〜)へと還元する評価は、怠惰や逃避以外の何者でもないだろう。確かに、この映画の原作は人頭税万歳、のサッチャー政権下で書かれたものだし、「ダークナイト・リターンズ」や「ウォッチメン」など、あの時代のコミックは「政治の季節」のまっただ中にあった。しかし、この映画はそうした「政治的な背景」をほとんど利用していない。共産主義が破産宣告を受けた今、左右の政治的主張による対立はあまり意味を成さないからだ。
では、この映画でクローズアップされるものは何か。それは「異質な者」を排斥しようという心理であり、異質な者への「恐怖」を煽り立てるシステムだ。少年犯罪に関して「ホラーハウス社会」が描いたような、銃社会について「ボウリング・フォー・コロンバイン」が描いたような、「恐怖」を麻薬としたセキュリティへの希求。そこに「理解不能な他者」が加わると、その構図は完璧になる。この映画では白人プロテスタントからみたあらゆる「異質」が排斥されている。ホモセクシュアル、レズビアン、黒人、イスラム教徒。
(書き途中)