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平塚らいてう「わたくしの夢は実現したか」を読みました

 小森陽一講演「平塚らいてうと日本国憲法」に行ってきました。

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 そこで「わたくしの夢は実現したか」(『女性改造』1948 年 10 月号掲載)を読む機会を得ました。長いのですが、冒頭を引用します。

 永い、永い時代を通じて、父系中心の封建的家族制度下に、隷従生活をつづけてきた日本の女性が、明治末期にいたり、ようやく女性もまた男性とおなじく人格ある人間であり、無限の可能性を内存する尊い存在であるという自覚に出発してはじめられた婦人解放運動は、太平洋戦争の勃発まで、およそ三十年間、生活の各部面にわたって、男女の同一権利の獲得、差別待遇の撤廃に、あるいは女性の特殊権利の確保に、さまざまの婦人運動が、多くの進歩的な女性により、その婦人団体によって、間断なく展開されたのであったが、その努力はあまりにも報いられるところが少く、ことに大正八年に開始された新婦人協会の運動以来、およそ二十五年にわたり、婦人運動の中軸としてもっとも熱心に継続された普選運動も、治安警察法第五条の改正によって、大正十二年、「女子が政談演説会を開き、またはこれを傍聴する権利」を奪回しただけで、国政への参加はもとより、地方自治政へのそれさえみとめられないままに、事変となり、戦争となり、およそ女性の心とは相反する現実の到来に、いっさいの婦人解放運動は中断されてしまったのである。

 一文で一段落。長い長い一文です。でも、主語は「婦人解放運動」で、明確です。文にねじれはありません。さまざまな論点と展開をもちながら、戦争に中断された運動の経緯に句点がつかないだけです。制度に組み込まれた性差別撤廃のために「間断なく展開」しながら、「国政への参加はもとより、地方自治政へのそれさえみとめられないままに」戦争に突入してしまったその経緯のどこにも、句点はつきません。この経緯が一文で一息に書かれなければならなかったこと自体がひとつの重大な事実です。

 運動が中断したあと、らいてうは「終戦の前日まで」「汗と泥にまみれて」「赤ん坊をおんぶした少女や、腰の曲ったお婆さん」たちとともに働いていました。その「わたくし」たちの前に 8 月 15 日は訪れ、彼女は「ポツダム宣言なるものを熱心に、いくども読み返」すことになります。「わたくし」がこのとき味わったのは解放感でも達成感でもなく、「複雑な矛盾するおもいと感情」だったと、彼女は書きます。

 ポツダム宣言には、1920 年、彼女が 34 歳で婦人参政権運動を始めて以来、「久しく求めてえられなかったもの」がありました。「自分が五十になるころには、おそくも日本の女性は参政権をもち、いろいろな婦人問題も解決されていようと心のなかで」思いながら実現できなかったものが、そこにあったのです。その、あまりに遅すぎた、しかし同時に、性急で突然でもあった事態に、彼女は「複雑な矛盾するおもいと感情」を抱えます。明治民法下では法的に主体となることが叶わなかった女性のひとりであり、戦争遂行時には協力して労働に励む以外になかった国民のひとりで、他の同じような人々とともに「米機の爆音がきこえてくると、機関銃の掃射をおそれ、急いでちらばって、芦のしげみのなかなどに身を伏せたり」して終戦の前日までをなんとか生きのびてきた。そういう地点にいる「わたくし」が、ポツダム宣言で突然に「日本の女性の解放を、婦人参政権の実施を」目の前につきつけられて抱えた「複雑な矛盾するおもいと感情」、その重みについて、今また考える必要があります。

 らいてうが熟読したポツダム宣言には「一切の戦争犯罪人の処罰、民主主義的傾向の復活強化、言論・宗教・思想の自由、基本的人権の尊重」の条文がありました。大日本帝国の敗戦によって、初めて人々にもたらされた「民主主義」「自由」「基本的人権の尊重」の言葉。らいてうたちが制度に阻まれながら、制度維持のために働かされ、そして筆舌につくしがたい犠牲が出て初めて、制度が負けを認めた。自分たちの敵は「敵国」の軍隊などではなく、自国の制度だった。自分たちは勝ったのだろうか、負けたのだろうか。

 そんな思いを晴らしたのが日本国憲法の制定と公布でした。1946 年のことです。

 「すべて国民は、法の下に平等であって、人種、信条、性別、社会的身分又は門地により、政治的、経済的、又は社会的関係において差別されない」とする十四条、「婚姻は両性の合意のみに基いて成立し、夫婦が同等の権利を有することを基本として、相互の協力により、維持されなければならない」とする二十四条をもつこの憲法の前で、らいてうは「もし日本が勝ってでもいようものなら、日本の女性は、なお一世紀をたたかいつづけても、おそらくこれだけの自由はえられないにちがいない」と正直に吐露しています。大日本帝国憲法下の民法では、結婚した女性は法的に「無能力者」とされ、主体となることを認められていませんでした(ドラマ『虎に翼』で寅子が「結婚てね、罠だよ!」と叫んだことがありましたね)。

 その、人々を支配し、苦しめた家制度が日本国憲法によって、とりわけ十四条と二十四条、そしてその条文に基づいて改正された新しい民法(1947 年改正)によって「根柢から」くつがえされることになりました。

新民法で、いちばん厄介だったこの「家」が消滅してしまったのである。もはや女性は婚姻によって夫の属する家に入籍し、その家の氏を名のらなければならないというようなことはなくなり、どちらの姓を名のるも自由で、夫妻の協議によって決定すればいいのである(もっともわたくし自身は、しいて姓をいずれかの一つにきめなくても、それぞれもとのままでよさそうにおもうし、さらにいえば、すでに「家」をみとめないのだから、氏族制度の名残りのような姓を廃し、すべて名のみにしてはどんなものかとおもっている)。

 また、この文章が書かれた前の年、1947 年に社会福祉法制の中でもっとも早く制定された「児童福祉法」についても、らいてうはこう評価しています。

これ(児童福祉法)はすべての児童の生存権、教育権の社会保障であり、児童の保護を、その直接の保護者のみならず、すべての国民の、いいかえれば、社会の連帯責任であると規定したところは、これまた旧日本には考えられなかった大きな飛躍であり、母の権利とともに、子供の権利を早くから要求してきたわたくしの夢の実現を、ここにもみることができるのである。

 しかし、1948 年にらいてうが見ていた自由は、2026 年現在、実現したとはいいきれません。「両性の合意のみ」に基づくはずの婚姻の現場では今も「入籍」という言葉が生き、結婚は「家同士の問題だから」と言って他人の結婚に難癖をつけるようなことも「常識的」な行為として行われています。選択的夫婦別姓制度が導入されるあてもありません。民法の条文上での差別的な待遇が解消されても、その解消を憲法が命令していても、慣習はなかなか消えません。

 「子どもの権利条約」に日本が他の国から少し遅れて批准したのは 1994 年。しかしその後も、日本政府は現行法で十分子どもの権利は守られていると主張して、子どもを主権者とする国内法を整備するに至りませんでした。10 代の死因第一位が自殺で、2024 年には過去最多を記録しました。学費は上がり、大学は富裕層の贅沢品になりつつあります。子どもの貧困率の高さも問題です。主権者として子ども達が得られるはずだった、自分を守るための知識、隣人を守る知識、友人を守る知識からも遠ざけられたままです。

 私たちは 1948 年の平塚らいてうの先進性において行かれたままです。

 一方で、らいてうは与謝野晶子との「母性保護論争」にも見られるように、母となる女性の「特別の権利」を主張しています。1948 年の彼女は女性を母となる性としてしか見ていないところがあり、その視界には、結婚しない人、子どもをもてない人、子どもをもちたくない人、性的マイノリティなどは入っていません。女性を産む性として語る彼女の議論を追っていると、かなり危なっかしいものを感じます。現在の日本政府の「少子化は国難」「子どもは国の宝」といった表現で「国家の存続を人権より優先させる」姿勢(斉藤正美『押しつけられる結婚 「官製婚活」とは何か』)に利用すらされそうな態度です。

 これは私たちの現在地がどれほど苦しかろうとも、1948 年より、少しはマシになっているからいえることなのでしょう。あらゆる制度にジェンダーの価値付けがあり、街に出ればそこここで性化した表現にぶちあたりますが、それをそのように認識できるのは、別の可能性を知っているからで、一度知ってしまったものはもう後戻りできません。

 国連人口基金事務局長ナタリア・カネムは「世界人口白書 2023」でこう声明を出しました。

問題は、人口が多過ぎるのか、または少な過ぎるのかではありません。問うべきは、望む数の子どもを希望する間隔で産むことができるという基本的人権を、すべての人が行使できているかどうかです。

 らいてうの示した理想には、今、私たちがたどりついている地点を予告するようなものも、逆に後退させかねないものもありました。可能性も限界も両方あったということを、私たちは理解できる地点にいて、批判的に読み継いでいけます。

 つい、「絶望」などと口にしたくなる昨日今日ですが、彼女にならって、永遠に失望はしないと応じてみたいものです。

  • 1945 年 4 月 1 日 米軍、沖縄上陸
  • 1945 年 7 月 2 日 米軍、沖縄攻略作戦終結を宣言
  • 1945 年 7 月 26 日 アメリカ、イギリス、中国共同でポツダム宣言発表
  • 1945 年 7 月 28 日 鈴木貫太郎内閣、ポツダム宣言を「黙殺」
  • 1945 年 8 月 6 日 広島市に原爆投下
  • 1945 年 8 月 8 日 ソ連対日参戦、ポツダム宣言に署名
  • 1945 年 8 月 9 日 長崎市に原爆投下
  • 1945 年 8 月 14 日 日本、ポツダム宣言を受諾
  • 1945 年 8 月 15 日 昭和天皇、ラジオを通じて国民に敗戦を宣言
  • 1945 年 9 月 2 日 日本、降伏文書に調印
  • 1946 年 6 月 憲法改正案、枢密院で可決
  • 1946 年 10 月 憲法改正案、貴族院・衆議院両院で修正を経たあと、可決。これを枢密院が同 29 日可決
  • 1946 年 11 月 3 日 日本国憲法公布 
  • 1947 年 12 月 22 日 民法改正 家・戸主の廃止、家督相続の廃止、均分相続の確立、婚姻・親族・相続などにおける女性の地位向上など
  • ……

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