バーバラは「しゃべる刺繍の店」を経営している。店舗兼住居のその建物の至るところにしゃべる刺繍が飾ってあり、寝室の天井に飾ってある母の刺繍からは「さあ、起きて! 時間よ!」という生前の声が流れる。バスルームでも同様で、バーバラは天井から流れる母の声と母の刺繍を見ながら暮らしている。しかし、その暮らしも限界が近づいている。母から引き継いだ刺繍の店は閉店間近で、売り尽くしセールを始めたところだ。出張裁縫をしているが、その予約もほとんど埋まっていない。今日はグレースからの予約が一件あるだけだ。グレースは三度目の結婚式に臨むべく、背中のボタンをバーバラにつけてほしいと言う。「お母さんなら、こんなのあっという間よ」と嫌みを言われ、針をもつ手が震えてボタンを落としてしまうバーバラ。ここから彼女の選択が狂い出す。
バーバラは事故現場に遭遇して選択を迫られます。ただの事故ではないようだったからです。おそらく道端に散らばっている白い粉は麻薬。道端で争って倒れている二人の男は血を流しているし、どう見ても麻薬取引中のトラブルです。バーバラは車でそこを通り過ぎながら、このまま見なかったふりで直進してしまうか、通報するか、それとも二人の男を殺し、そこに転がっているトランクをもって立ち去るか考えます。映画では、バーバラがこの三つの選択肢をそれぞれ生きることになります。完全犯罪をもくろんだバーバラ。通報したバーバラ。直進したバーバラ。正解は?
「糸を引く」という慣用句があります。物事がうまく行くように手はずを整えたり、人の見えないところでなにかを操ったりすることを意味します。多くは「裏で糸を引く」のように言い、あまりよい意味では用いません。この映画では、バーバラが手にしていた針と糸でもってからくりをつくり、ものや人を動かして危機を切り抜けようとしていきます。物理的に糸を引くのです。彼女のからくりはだんだん大がかりになっていって、出てくる度におかしみが増していきます。彼女が事故現場に遭遇して、通報と直進以外にもうひとつ、「完全犯罪」という選択肢を思いついてしまうのは、日頃からものともの、ひととひとの間に見えない「糸」を見てきたからなのでしょう。そこで彼女が住む住居の天井に張り巡らされた糸と刺繍のからくりを思い起こします。母の刺繍と、刺繍から出る母親の声の下で生きている彼女。最初は自分で糸を引いたはずの、その支配から抜け出せない彼女。波のように訪れる危機的な状況下で彼女は母について、ある痛切な告白をするに至ります。
母からの解放を望んでいたと。
試されて、繰り返したどってしまう悲劇のうち、すくなくともひとつはハッピーエンドです。本当のことが言えたのですから。
嫌みをいわれたり脅されたり、自分で危機的な状況に首をつっこんでしまったりして、バーバラは本編中、ほとんど本当の声を出しません。でも、促されて母のことを語ったときは本当の声を出していました。その声の対比は見事でした。
おもしろかったです。
邦題はミスリーディングで、彼女は雇われでも見習いでもないので「お針子」とは呼べません。一人で刺繍と裁縫の店を経営しているプロです。「世界一不運なお針子」とタイトルについているせいで、横暴な雇い主や、劣悪な環境の縫製工房が出てくるのだとばかり思っていました。「世界一不運な」も実質、意味不明だし、「世界一」と「最悪」がひとつのタイトルの中で重なるのは知的とは言えないと思います。タイトルは最短の詩とも呼ばれるものですので、詩情がほしいです。この映画は詩情のあるタイトルをもつにふさわしい、独特の美しさのある、完成された映画ですから。

🎦 おわり 🎥