また「名探偵ポワロ」シリーズの『オリエント急行の殺人』を見てしまいました。原作は二回読んでいて、映画はシドニー・ルメット監督版を一回、ケネス・ブラナー監督版を二回、そして、ドラマ版は……四回か五回。ドラマ版は NHK だけで 9 回放送している。私はその全部を見ているわけではないので、強火のポワロファンとはいえないと思う。気づいたときに見ているだけだから。とはいえ、同じ話を何度も見ているのは事実です。こうして何度も見てしまうのは、この物語が、圧倒的な力の差のもと、奪われ盗まれた、もたざる者たちのものだからです。雪に閉じ込められたオリエント急行。その中で起きる殺人事件。容疑者は同じ一等車に乗っていた乗客たち。エルキュール・ポワロは被害者が過去に犯罪を重ね、資産と脅しでもって司法を抑え、報道を抑え逃げおおせた人物だと知っていた。法に触れても財力と暴力の傘に守られる人物。そんな人物がだれかを攻撃し始めたら、その人を守るものはありません。当人が善人であり、善人として人生を歩んでいることすらも、守ってくれないところまで追い詰められる。そこに新たな暴力が呼び込まれる。
ポワロは自身が神でもなければ法でもないことに自覚的で、自分が判断すべきでないことが何かを知っています。法、倫理、信仰の傘の下にいる彼がそのラインを越えなければならない状況に至り、苦悩するのです。
その決断に至る過程は何度見ても辛いものです。決断を知っていても、はらはらしながらポワロの苦悩とともに過ごす 90 分です。
いくつかある映像版でスーシェ主演版が好きなのは、もちろん、画面がリッチなのもあります。あれほど豊かな画面はもう二度と実現しないのではないでしょうか。あの映像には温度すら映っています。凍えるポワロとともに、私たちも震えます。そして、最大の魅力はデヴィッド・スーシェ演じるエルキュール・ポワロのたたずまいです。その重い姿が完全に事件と釣り合っているのが見事です。愛想笑いをしないポワロ。重い荷物を背負っているポワロ。何度も、神に祈り、法と人間性に期待するポワロ。そして決断のポジションに立たされる。あのポワロは本当に見事です。見事としか言いようがありません。
この、「倫理にも信仰にも法にも守ってもらえない、もたざる人々」というモチーフは残念ながら今また、見る者をさいなむものです。
『オリエント急行の殺人』を見た人が、「今ならこんなことは 100 % ありえない」と驚愕するような時代がいつか来てほしい。
最悪なことはすでに起こったあとだというのに、最悪なことが起こり続ける日々です。
検察の求刑が出るまで、毎朝山上徹也被告の公判記事を読んでいました。自分がそこからわかることは被害者と被告の間の、圧倒的な格差だけでした。法的にも倫理的にも被告の行動をジャッジできる文脈のなかに自分はいないので。ただ、私も、母親が新興宗教を頼って逆に預貯金を全部もっていかれるなど、その他もろもろあったので、親と対話が不能であるときに感じる心細さや恐怖、無力感は通じる部分があります。
公判記事を読むと、被告がまず、親に守ってもらえなかったことが迫ってきます。カルトに生活を破壊されてしまったことが。もちろん世間にも、地域社会にも守ってもらえなかった。そして、法にも守ってもらえなかった。
片や被害者は、家に守られ、世間に守られ、法に守られ、法を越えたところでも人間関係に守られた。自身が法に触れても、間違った発言をしても、まわりが調整してくれた。彼を法で裁けていたら、今頃まだ生きていたはずです。でも、彼は法を越える存在だった。彼を受け入れて、日本社会は法治国家であることをやめたわけで、だとしたら、山上被告を裁くのも法ではない何かです。
この、事件の原因でもある圧倒的な権威の差、権力の有無は、山上被告を裁く立場にない私には差別にしか見えません。何をやっても許される人物と、何からも守ってもらえない人物。差別以外ではありえません。ここには選択の余地などなく、私もまた、法にも倫理にも守ってもらえなかった側に立つ人間として、そこに立たされ、日々、その無力さをかみしめている。侮辱されながら生きてきて、おそらくこれからも侮辱され、ないがしろにされる運命にある。だれがそうするのか。それは戦争を起こし、人間を武器の部品にし、空襲を呼び、原爆を呼んだものと地続きのものです。多くの人びとを「死んでもいい存在」として格下げし、差別したもの。今また、「日本人に基本的人権はいらない」と格下げに躍起になっているその思想。
人を人とも思わないエンジンとしか呼びようのないもので動く、すでに人とは呼べないものが酷いことをし、酷い場に追い込まれた人が喜んでそのエンジンの維持に努める。
私たちがいる地獄が公判でクリアに見えました。
正義を切望しています。