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屈する

 東京新聞の名物コラム「大波小波」には外れの回があります。

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 匿名諸氏によるコラムで、他の媒体での書評等では扱いが弱いものを積極的にあげたりして、生々しさと洗練の間を行くようなコラムです。

 その中に以前からハラスメントの告発を「歴史修正」と呼んだり、告発された側をもちあげたりして、被害者にだまっていろと言わんばかりの文章があります。書き手のなかにひとり、古い「常識」を脱げずにいる人がいる。

 「大波小波」のよいところは、それが放置されず、同コラム内で批判されることです。

 今朝、6 月 12 日掲載分がそうでした(以下、すでに新聞を回収に出してしまったあとなので、記憶で書きます)。5 月末に載った、告発のせいで批評家の自由が奪われたという内容に対する反論でした。読み始めて「ああ、よかった。ちゃんと反論が載った」とうれしくなりました。反論は、さまざまな具体的事例をあげて、説得的におこなわれていました。ハラスメントを矮小化するな、そのいやがらせを捨てられない批評家の、そのスタイルにこそ問題があるだろう、という主張でした。からかいや嘲笑、冷笑で作家にハラスメントをし、作品の価値を不当に貶めてきた批評家に対して、そうは書いていないのですが、「そのいやがらせ、どうしても書かなきゃいけなかった?」「ハラスメントしなきゃいいんだよ。なんでそんなしょうもないスタイルをすてられないの?」という書き手の苛立ちがあったように思います。

 ハラスメントの告発が不調に終わるのは、加害者が加害者であることをなかなか認められない構造があるからです。そこには「笑い」の要素があると思います。ホモソーシャルを「笑い」が支えているという問題があります。同じことでみんないっしょに笑う。笑える、笑えないという判断が即時にできる。それでその社会の一員だということになる。そんなふうにして、笑う/笑わせることで共同体の一員として認められてきた人には、それを「ハラスメントだ」と告発されることは死活問題なのでしょう。自分の人生すべてを振り返り、個人をあざわらい、いやがらせをする構造の一部になっていたことを認めるのは多大な苦痛をともなうことです。園子温にしても松本人志にしても、かれらは「みんな、これで笑ってたじゃん」と言いたいのだと思います。

 「みんな」が笑って自分を迎えいれてくれ、自分も「みんな」と一緒に笑ってきたのに、はっと気づいたら、笑っているのは自分だけだった。「みんな、前はこれで笑ってたじゃん? なあ!」というのが、「ハラスメント、ハラスメントうるさい」とか「なんでもかんでもハラスメントじゃん」の中身なのではないでしょうか。「私はこれで『みんな』といっしょに笑いながら生きてきた。『おまえら』がこの船はから降りても、私は降りない」

 これが「古くなる」ということの意味だとしたら、こわいなと思います。

 教育学の分野で 40 年ギャップという考え方があります。子どもたちが社会に出て行くのが大体 20 年後として、教育カリキュラムはその 20 年後を想定して組まれます。しかし、親世代は自身が受けた 20 年前の教育を基準にして接してしまいます。実際に子どもたちに接する親や教員の意識が、自分が「生徒」だったころで止まっていると、子どもたちは「これから」を生き抜くためのカリキュラムを十分に学ぶことができないどころか、古い偏見や「常識」という名の差別意識を学んでしまうことになります。

 こうしたギャップは社会に出てからも、生じるのではないでしょうか。私は恩師に「学生には常に最先端のものを見せなければいけない。学生はこれからを行くんだから」という指導を受けたので、そういう構えで社会に出ました。そこで驚いたのは、社会に出ると多くの人が学ぶことをやめることです。やめざるをえないのです。忙しいから。「忙しい」という言葉では足りないほどです。仕事と、最低限の生命維持にかかわる営みを合わせたら、それで一日が終わります。ひどい場合は、「食べる」「寝る」といった最低限のことすらことかいたまま、一日が終わります。新しいことを学ぶ構えなんて、あっという間に失われます。そこでは、学ぶことや考えることは余裕のある人間のする、無駄なことです。学び続ける人に対する憎しみすらわきます。「意識高い系」という悪口の中身はそれなのでしょう。

 それで何が起こっているかというと、それぞれの親世代のもっていた常識の反復です。でも、その親たちだって食べるのに必死で、学んだり遊んだりできなかった世代です。自分たちが子どもだったときに「常識」として身につけたもの、それでやっていくしかありません。いくら考え続けよう、見ていよう、学ぼうとしても、ガン! ガン! と横から古い「常識」が束になってかかってくる。

 だから、実感としては「40 年」どころじゃないんですよね。ギャップが。

 たとえばその「常識」に合わない、またはその「常識」からすると不要であると言われて、子どもの頃から差別を受けてきた人たちは、常に常に差別とはどんなもので、どのような構造をもっていて、それがどんな悲惨なことを、最終的にはジェノサイドを招くかということを考えざるをえません。生きるために、考えて、学ばないといけません。自分に「しね」って言わないために、他者にそう言わないために、いちいち考えないといけない。そういうふうに生きてきた側からすると、差別を程度問題といって、「法」が立場や身分、性別国籍で適用が変わるのは当たり前だという人は 12 歳くらいで止まっているように見える。たとえば父親が「女は痴漢に遭って一人前」とか言ったとしますよね。そういう父親は残念ながらたくさんいます。それをたとえば兄妹で聞かされていて、妹は「なんてひどい」と口答えする。それを「女は黙ってろ」とまた𠮟られる。このときに妹は「横にいる兄は何をかんがえてるんだろうな」と思ってる。まさか、父親の言うことを「おっしゃる通りです」とは思っていやしないだろう、兄は父よりはすこしはマシな考えをもち、マシな行動をするだろう、兄が成人したころ、社会はすこしマシになっているんじゃないかな。ところがその兄が、父親と同じ価値観を身につけて大人になり、というときに妹が感じるギャップはめまいがするほど大きなものです。

 これを「分断」とか言えてしまうのは、上から見ているからです。「みんな」が「一致団結」しているのが当たり前だという統治側の視点に立っているから、「分断」なんていえる。差別される側からすれば、「いないことにされている」わけで、「分断」なんて生やさしいものじゃない。

 ほんとうは「新しい/古い」の問題でもないんですよね。

 でも、そこに前々世紀からひきずっている思想の古さの問題があるから、相対的に孤立させられている側が「新しい」ということになってしまう。

 人権という価値が毀損されている。人権という考え方、人には人権があるということを学ばざるをえなかった人、幸運にも学べた人、機会を得て現に学んでいる人。そして、それを学ぼうとしなかった人、否定してきた人、現にこわそうとして具体的なアクションに出ている人。これらのほかに、「人権について十分に学んだが、今は懐疑的である」という「元リベラル」な人たちがたくさんいる。その人たちが「俺は古くなった」「ついていけない」と言っている。そして、「ハラスメント、ハラスメント、言い過ぎじゃないか」とかコラムに書く。

 そこで終わりなのですか?

 と私は疑っている。

 リベラルに対する攻撃がつづいていますよね。

 その攻撃に負けてしまった人たち。真面目に、真摯に、そのリベラルたたきを聞いてしまい、部分的に説得されてしまった人たち。ほんとにそこで終わるつもりなのですか? と問いたい。

 「『リベラル』な人は視界が曇っているからよく見えていないだろうけど、人種間に優劣はある」だの「『リベラル』に勢いがあったのは、それが儲かるからだ」だの、そんな寝言にどうして耳を傾けてしまったのですか? 「うるせー、人種主義者はだまってろ」でよかったんじゃないでしょうか。貧困問題や格差問題、性暴力をどうにかしようとする市民運動の背後に資金を援助する「ナニカ」がいたら、みんな困窮してないですよね。寝言にこんなに惑わされるなんて。

 権威主義に屈するなんて、らしくないじゃないですか。




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