非常に有名な映画を見ました。ストーリーにふれざるをえないので、タイトルはふせます。70 年代の日本の映画です。雰囲気はいいのですが、クズ中のクズがひとり出てきて、これがほんとに想像をこえたクズで、詐欺を働いて家を一軒傾けただけでなく、その家の女性と関係をもち、子が生まれる。そこで話は終わらず、そのクズはほかにも二人の女性と同時期に関係をもち、子が生まれます。三人の婚外子が日本の田舎でどんなたいへんな目にあったか。そこで話は終わらずなんとこのクズ、妻帯者で、妻との間にも子どもが二人いたのだった。で、クズ、死ぬ。そして時は流れ……
最初から胸が悪くなるような話が、さらに、この同じ父親をもつ 5 人のきょうだいが成長したころ、凄惨になります。
ここがどうしても、納得いかなかった。
クズは死んでるので、遺された人たちはいわば被害者たち。なのにその間で緊張が高まり、殺意が発生する。
クズも入れて、5 人死ぬ。クズと、クズがクズであることを利用した別種のクズと、全然クズじゃない、これから直線的に生きていこうとしていた 3 人が 1 によって殺される。
なんで?? なんでその 3 人、死なねばならぬ???
と不可解に思っていると、ラストで、クズに裏切られ、虐げられた主人公は、「でも、愛してるんです……」と言って泣く。理不尽に重なる理不尽、暴力、暴力、暴力。忍耐。許し。という、お定まりの「支配の物語」に思わず激怒。
それで、言いたいことはその物語の凶悪さについてじゃなく、その物語がよくあることだという現実についてでもなく、こういうとき、ダメなものはダメでいいんじゃないかなということです。
「そういう時代だから」と、今の読者がそれを慮って割引いてつきあってあげることはないんじゃないか。この映画は失敗してる。それは事実として、単にぺたっと、「おもしろくない」で終えていいんじゃないか。「時代の制約」自体はいつでもあって、いつでもだれでも「型にはまる」危険性はあって、「型にはまる」ってことはそこに偏見があり、差別があるってことだから、物語的には「穴があいた」ってことで、そうなったら単に「失敗」でいいと思う。
あと、「ここはクソだな〜」という部分を指さし確認しておさえておいた方が、そうじゃない部分、その物語の強い部分が際立ちやすい。
先の映画も、現状のストーリーはクズに甘すぎて「なんだこりゃ」って言われてもしょうがない代物だけど、子どもたちの間には確かな友情があって、それがかれらの強さにつながっていました。その描写はよかったです。母親達が共闘してあのクズを殺し、ひとびとの見えないところでひっそりと手をつないできたという別のストーリーを想像すると、そっちの方がしっくりきたほどです。この、私が想像した物語の種はあの映画に最初からあったもので、そういう可能性をふくめて観客は映画を見るんだと思う。
アガサ・クリスティなんかも、「これはダメだナ」っていう作品はあるのです。「こういうことの先に虐殺が起こります」という感じのダメさをたたえたものが。ただ、クリスティの場合は、それで終わらないところがえらいところで、駄作を絶対に書き直す。もちろん筋立てや人物は変わるけど、物語の動機や関係性、アイデアをもっかいたたき直して仕上げる、ということがときどきある。そういう営みがおもしろい。
映画も小説も公開されてそこで終わりじゃなくて、書き損ねたものや実現しなかった場面、ラストが含まれた、未完の状態でリリースされて、それを次につなげるのは読者、観客の仕事でもあるんだと思う。