天命を知る年齢になりまして、日々老いを指さし確認しています。祖母が「年をとるってのは大変だよ。あんたらも一度、やってみたらいい(ニヤリ)」と言っていましたが、あのときの彼女の境にはまだまだとはいえ、その道に気づかないうちに入門していたなと思っています。

〜突然発表! 老人初心者の私が老いを自覚する瞬間〜
修復不能なところが痛い
ばね指になりました。
左手の親指です。
以前から時々痛くなったり、ぱきぱき関節が鳴ったりしておりました。このほど、完全に症状が一段階上に上がりまして、ちょっとした動作に支障をきたすようになりました。
左手の親指はいろんなことに使うので、まあまあ不自由を感じております。目薬のキャップをひねる動作ひとつでも、うっかり左手でやると「いったーい!」ということになりかねません。まだ、大事にしていれば症状をおさえられる段階のようですので、しばらく左手を病弱な妹のように遇していきます。
こうなってみますと、映画やドラマなどで見る「節々が痛い」描写がより胸にせまってきます。足をひきずるほどに膝の悪いひとが、正座する以外に座る方法がないとか、そんな描写に傷つきますし、定年間際の刑事が立ち上がるときに、まるで膝に話しかけるようにようよう立ち上がるのを見ると胸にくるものがあります。
音楽を掘る気が起きない
私が音楽に関して最初に老いを感じたのは 2016 年のことでした。あのとき、ふと「若いもんに任せた」という気分になり、「情報を追う」ということをやめました。あれから約十年。好きなミュージシャンは大体同世代か、それより上ですから、この年齢になると、その方々の作品を日々聞くので手一杯というか、それで一日がおわります。そんなときに「あ、ちょっといいな」くらいの動機でいちいち掘り返してたら大変なことになります。「あ、ちょっといいな」くらいの曲は毎日毎日見つかるので。それで全部掘り進めていたらわけがわからなくなります。そういうことは若い人またはプロにお任せしたい。
スピードを下げても問題なくなった
意図して「ゆっくりやろう」としている部分と、どうしてもゆっくりにしかできない部分とがあいまって、いろんなことのスピードが下がっています。それでも一日のなかで、または一週間、一カ月のなかで、どうしてもやらなきゃいけないことなんかはすぽっとおさまるようになりましたし、はやくやる能力が落ちた分、焦ることがあまりなくなって、無駄な動作が減ってとんとんになった感じです。
思わぬミスが発生するようになったがそれで動じなくなった
新聞をずっと、紙で取っています。ということはその新聞に掲載されている数独をずっと解いているということで、長年同じ場所で同じ動作を繰り返していると、「以前はしなかったようなミス」に気づきます。「ああ、こういう間違え方、前はしなかったのになあ」ということがちょこちょこあり、「これは、老いたのだな」と思っています。一度に視界にいれられる範囲が以前よりせまくなっています。
だがしかし、何十年も日々やっていることなので、いくら私が数字という言語に弱くとも、習熟はしていくもので、以前だったら諦めていたであろうと思われるような問題もさらさらと短時間で解くようになりました。
果てしなく、情報としてどうでもいいことになりますので恐縮ですが、現在、紙でとっている新聞は「朝日新聞」「東京新聞」「赤旗日曜版」の三紙です。このうち「赤旗」がダントツに難しく、二週に一度掲載されるハイレベル問題(目標時間が指定してあって、それが 40 分の問題)は、ふつうに解いていると解けません。「ふつうに解いている」とは、「特殊な解法を教わったり、考案したりすることなく、ただたんに、ぐるぐると埋められるところから埋めていく」ことです。赤旗のはそれでは解けないので、いろいろとああだこうだ考えて、それまでやらなかった方法で埋めなくてはいけない場面に出会います。そして、そうしたものを解き慣れると、東京版と朝日版は息をするように解けるようになります。
かといって、数独が「脳トレ」になっていないことは私がようくわかっています。数独を解いてるとき、ぼーっとしてるもん。むしろ脳は休んでいる。だからうっかりミスをする。そのミスの仕方が年齢に応じて「あらあら」という感じのものになっているのを観察するのです。
新しいことをしたいと思う、ひろげたいと思う
同じ作業でもちょっと視点を変えたり、延々やっていることに改めて別口から入門したり、そういうことはしています。「昨日までできていたことが今日できない」とか「この痛みはきっと劇的にはよくなりはしない」とか、そういうことは自分が直面してみるとそれなりにショックで不便なことではあって、ひとつもおもしろくないので、できていることにかんしては日々フレッシュな気持ちで臨めるよう、工夫していきたいです。また、これまでは「自分にできることをこつこつがんばる」だけで生きてきましたが、これからは意識して、できることをひろげていきたいなと思います。いや、少しずつ、自分なりにひろげてはきたのですけど。ひとりデモとか。ひとりデモははたから見たらただの散歩なのですが、あれでも外に出るときは勇気ふりしぼってる。でももうちょっとがんばりたい。「立ち止まって話を聞く」とか、そういうことをする。気になってるくせに通り過ぎたりしない。その場所に行ってみる。
ゆっくりですけど、意識してそういうことをしたいです。

ちなみに、タイトルの「老人見習い」はスピッツが五十代にさしかかったころ言っていたような記憶があるのですが、今調べたら全然出てこないので勘違いかもしれません。スピッツは新しい方のアルバム三枚がすごく充実していて、聞き飽きないうえに読み飽きないので、すごいなあと思ってます。
スピッツが出たついでで、Base Ball Bear の話をしますと、Base Ball Bear のひとが「ホモソーシャルをかいたいする」と公言しているようなのです。おお。そういうこと言うんだ、はげまされるなあと思いました。私もせっかく年老いたので、残りの人生、家父長制解体運動に勤しみます。
とにかく、ひとりの老人見習いとして、また新しい気持ちでがんばりたい、そういう気持ちです。

🍋 おわり 🍋