「正義の反対は悪ではない。『もう一つの正義』だ」とはよく言われるけれど、そこには二重の誤りがある。そもそも「正義」の対概念として「悪」を連想するところから間違いが始まっている。「正義」の反対は単に「不正義」であって、そこで即「悪」という言葉が出てきてしまうところに、私たちが日本語の中で生きていて「正義」を扱いかねている実態が見える。
「正義」はみんなで考えてみんなで手にするもので、そこには合意のプロセスがあるし、小さなことであっても、都度都度であるにしても、ローカルであるにしても、合意を実現するには公共空間が必要だ。退潮しているのは「正義」以前の、この「公共」だ。「みんなのもの」を合意なく私有化する政治プロセスを重ねてきた結果、社会が「みんなでつくるものである」という前提が見えにくくなっているのだろう。
「正義の反対は悪」という思い込みは、「正義」を恐れるとき、自分(たち)が悪人だと名指されていると勘違いするときに出てくる誤りだが、その妄想に近い誤りの上に立って言われる「正義の反対は悪ではない。『もう一つの正義』だ」は、もはや「公共」からあまりに遊離していて、まるで悲鳴のようだ。
今週は『公正(フェアネス)を乗りこなす』の朱喜哲さんのインタビューが朝日新聞に掲載されたり、神島裕子さんの『正義とは何か』を読んだりして、上記のようなことを勉強していました。
そんなある日、新宿に出る予定があったので、お昼をベルクでいただきました。

サンドウィッチはニシン、卵、レタス、玉葱などを黒パンではさんだもの。
ちょこっとごはんを食べたいときに、このベルクで立ったまま飲むコーヒーは最高です。おいしかった〜。急いでいるときに、立ち止まってしっかりおいしいごはんを食べられるのがうれしいです。
ベルクでぱくぱく食べて、 NO WAR を復唱しました。ベルクには「新宿の街でひとときほっとできる公共空間をつくっていきます」という構えを感じます。
元気いっぱいになって向かったのは、すっごく久しぶりになってしまったシネマート新宿です。久しぶりに行ったら、こんなポスターがあって驚愕しました。

四時間あるという、エドワード・ヤンの、伝説の映画です。最初の公開は 1991 年。そのあと、しばらくおいそれと見られない時期があって、2017 年にデジタルリマスターされた機会に見損ねて、いつか見たいなあと思いつつ、なかなか「四時間」をすっとひねり出せずこんにちまで来ていました。今度こそ見られる! とわくわくしました。
ただし、この日は、すでに別の映画に覚悟を決めて、ここに来ていたのです。
ずっと見逃していた『ノー・アザー・ランド』を見ました。

イスラエルに封鎖されているガザの数年を追ったドキュメンタリーです。封鎖ってこういうことなんだと、気持ちがずたずたになりました。
パレスチナ人記者で活動家のバーセルとイスラエル人記者のユヴァルがともにシオニズムに抵抗を試みる現場を映しています。今日はまだ「見た」ということしか言えないです。映画を見ていて、途中であんなにはっきりと身体への反応が出て、具合が悪くなったのは初めてでした。外に一回出た方がいいかなというくらいでしたが、どうしても全部見たいと思い、口と鼻をハンカチで覆って深呼吸を繰り返しました。
こんな理不尽な、これ以上なく酷いことがずっと続いてきて、今、このときも続いている。とんでもない、人道に対する、命に対する犯罪だと思いました。
この日はへとへとになって帰宅し、『ガザとは何か』を読みました。
この中でも繰り返し書かれているのですが、問題はパレスチナじゃないんですよね。問題はジェノサイドを続けるイスラエル軍にあって、「イスラエルとは何か」こそが問われなければいけない。新聞では今も「ハマスが」とハマスの攻撃から今回の虐殺が始まったかのように語り、イスラエルを免罪していますが、イスラエルのガザ攻撃はそのずっと前から続いてきたんですよね。イスラエルには認められている自身を防衛する権利がガザにはない。その圧倒的な不均衡、不公正。同じ法律が片方には摘要されてもう一方には摘要されない理不尽。いつまで「西側」はイスラエルの、そしてアメリカの側につくのでしょうか。
この映画とガザについては都度都度見て考えて書いていきたいです。
と、そんなことを家で読みながら考えながら話しながら、ふと視界に入ったニュース。東京の、菊川にある、ミニシアター Stranger で『柔道龍虎房』が見られる……? いつ……? あした……?
それで急遽、初めての駅、初めての映画館に行ってきました。


『柔道龍虎房』。最初の公開は 2004 年だったんですね。
香港の街で、才能も実力もありながら挫折している柔道家と、若く野心的な柔道家が出逢い、どうしたわけか突然サックスを吹いたり、ギターを弾いたり、チンピラの上前を浚ったり、そんなことをしているのに許されたりしていて、そこにさらに歌手になる夢を追いかける人が現れ、前のエージェントに違約金を請求されたり、オーディションに参加もさせてもらえなかったり、新しいエージェントが全然頼りなかったり、父親に帰ってこいと説得されたりしていて、そしてここにはとても書き切れない人たちのもろもろのいろいろがあるんですが、不思議ときちんとした映画で、私はなにひとつ納得できないことがありませんでした。ずっと、「うんうん」「うんうん、そうなるよね」「必然だよね」「うんうん」と頷きつつ、笑ったり泣いたりして、大満足でその初めての地を飛び立ちました。
今回、しみじみと胸に響いたのは、主人公のシト・ポウが自分をとりもどすときをみんながじっと待っていた、そのことがわかる瞬間です。待望されていたシト・ポウ。シト・ポウに笑顔がもどって、ひたすらうれしいみなさん。これは「待つこと」を描いた映画だったんですね。ニンゲンが意志を示せるとき。それは待つと決めて、待っているとき。そんな強い倫理に貫かれていました。
よかったです。
そんな気持ちで食べた焼きスパゲッティがあっつかったです。

次の日、雨が降っていました。


雨にふられながら、帰って参りました、シネマート新宿へ。

短い期間に二度目のシネマート。ちなみに、お手洗いは今、こんな様子になっています。

お手洗いには生理用ナプキンが置かれていました。いつのまにかコンセッションも大充実。興味深いメニューが展開していました。シネマートにも「この新宿に、心細い人々のための公共空間をつくるぞ」という気概を感じます。
この日は『牯嶺街少年殺人事件』。四時間。「お手洗いに立たずに済む」と噂の大福が手に入らなかったので、事前におにぎりをひとつ、じっくり噛んで食べて、大福効果を期待しました。
大丈夫でした。
1960 年代の台湾。不安な社会、不安な大人たち。正義を構成できない、不公正な社会で、大人たちは子どもたちの前で不公正を、不正義を見せ続けます。傷つき、疲れ切った表情で。その、昼でも薄暗いような社会で、子どもたちが迷い込む隘路に付き添う四時間でした。
とてもハードな映画で、四時間の長さもやむなし、と思いました。どこにも無駄や冗長はありませんでした。映画館で見られてよかったです。

この短い期間に見た三本の映画はどれも私にとって大事な映画で、今後生きているかぎり、脈絡なく、都度都度言及していくと思います。そんな映画を連続で見て、私はくたくたになり、それから、元気いっぱいになりました。




🎦 おわり 🎥