以前、「人間が大嫌い」とよく言う知り合いがいて、私はその人のその言葉を目にしたり耳にしたりする度に、「私は私が大嫌いだよ」って思ってました。
でも、「人間が大嫌い」も「私が大嫌い」もすごく編み目の粗い表現で、二人とも口癖になってるから言ってるだけで、多分実態に即してないと思う。
「私は私が嫌い」には二つの「私」が出てくる。最初の「私」はもう、いろんなことがイヤになっていて、すぐ「しにたい」とか「うまれてきたくなかった」とか言う。それはそれでしょうがないかなと思う。でも多分、実態に即してない。できれば明確にその言葉を否定したい。二つ目の「私」はそんなことは思ってないだろうから。二つ目の「私」はいつも困ってる。うまれるとかしぬとかは自分で選べることではないし、そんなことを二言目には口にする乱暴な言葉遣いはしてほしくないと思ってる。
最近、「ここまで生きてこられた」と思った。無事にではないけど、とりあえず、まだ生きてる。だからこの先はまだわからない。
ほんとにダメ人間でイヤになる。
しにたい。
と言うと、二つ目の「私」が困った顔をするので、「ごめんなさい」と思う。その「私」と「私」は対句のようにきれいに対立してるわけでも、包含関係にあるわけでもなくて、片方が点としての現在で、もう片方が過去と未来を含んだ現在で、その「私」に「うまれてきたくなかった」とかもうこれ以上聞かせたくない。
がんばろう。
ここまで生きてきて、「何にもできなかった」とか「いるだけでまわりを不幸にした」とかそういう誤った思考に陥りそうになることもあるにしろ、せっかく生きのこる過程を生きてるんだから。