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『ぼくのお日さま』を見ました(結末まで書いています)

 やる気がなさそうに野球をするタクヤのもとに落ちてくる雪。

 冬が来ました。

 冬が来たら野球はお休みで、男の子たちはアイスホッケーをするのだそうです。誰よりもはやく雪と出会ったタクヤは、じゃあ、そのアイスホッケーが大好きなのかなというとどうもそうでもなく、あまりやりたくもないポジションに押し込まれています。結局、野球もアイスホッケーも好きじゃない男の子が、練習後のアイスホッケーで始まったフィギュアスケートの練習をふと見ると、そこには一人だけコーチ付きで曲かけの練習をしているさくらがいます。さくらのまわりには、フィギュアスケートを練習する大勢の子ども達がいるのですが、いつしかタクヤにはさくらしか見えなくなります。

 その「さくらをどうしても見つめてしまうタクヤ」から目が離せなくなってしまうコーチの荒川。そして、コーチがよそ見をしていることを知っているさくら。

 何十年先の将来、この映画が上映されたら、解説が必要な状況になっているといいなあと思いました。昔はこうでした、と。

 この時代は、男の子の世界と女の子の世界がはっきりと別れていて、双方は混じり合わないのが「ふつう」だったのです。タクヤは友だちから「女の方見てただろ!」とからかわれますが、仮に同じリンクにいたとしても、男の子と女の子は目も合わせないのがふつう。そんな時代のお話です。

 男の子はホッケーをする。

 女の子はフィギュアスケートをする。

 以上。

 ホッケーをやりたい女の子や、フィギュアをやりたい男の子はいないことになっています。「女の子/男の子はこっち!」って言われたときに「え!?」と戸惑ってしまう子はいないことにされてしまう世界の話です。

 そこでさまざまな、言うに言えない体験をする子ども達。

 タクヤがさくらを見つめるのは「恋」と呼んでいいものなのでしょうか。タクヤが実際にしたのは、さくらに話しかけることではなく、さくらの真似をしてフィギュアスケートをしてみることでした。彼が望んだのは、「あんな風に一人で滑りたい」ということであったかもしれません。アイスホッケーじゃなく。

 荒川は、タクヤがさくらに恋をしたと思い、二人を結びつけてしまいます。アイスダンスをやろうともちかけるのです。選手の層がうすいアイスダンスなら全日本もすぐだから、スケーティングをいちから見直せばシングルの方も伸びるからと言って、強引に二人を組ませてしまいます。

 ここにひとつの間違いが、はっきり言うと、罪が仕込まれたことになって、荒川がこの世界からいずれ立ち去る動機が生まれます。物語上では。

 荒川はさくらのコーチとして、さほど熱心ではありませんでした。さくらの演技を見ずに「右肩が下がっていたよ」などと、よくあるミスを指摘しておざなりに過ごす瞬間もありました。

 さくらという人は中学生にしてはたいへん幼く、声がまったく社会化されておらず、表情もありません。あまり、「今日、何食べたい?」「どこ行こうか」といった質問をされてこなかったのではないかなと想像してしまうような人物です。

 このさくらがタクヤと滑り初めると、笑い、自分の方からタクヤに話しかけることもあり、楽しそうです。「笑えるんだ、この人」と思いました。タクヤも楽しそうです。タクヤは吃音があって、言いたいことがあっても、声に出せたときには目の前にもう相手がいない、そんな経験を重ねている子です。その子がさくら、荒川といるときは実に楽しそうで生き生きとしています。

 始まりは荒川の強引なお節介でしたが、三人はこの上なく楽しい、解放された時間を積み重ね、完璧な瞬間を迎えます。

 それがぱっと弾けるのは、さくらが荒川の普段の生活を偶然見てしまったことによります。

 荒川はゲイで、恋人とこの街で暮らしています。その二人の姿をさくらが見てしまったのです。さくらの中で、シングルをしていたころ、荒川が自分をあまり見てくれなかったこと、フィギュア未経験だったタクヤにスケーティングを熱心に教えて自分と組ませたことが、ゆがんだ形で結びつき、それが表に出てしまいます。さくらの暴力にさらされた荒川は、この街での仕事を失います。

 言葉ではなく、視線があらぬところに向かい、それがぽん、ぽん、ぽんと行動に影響していくことで物語は動いていきます。

 だから、この映画では肝心なところで口にされる言葉が嘘や間違いでした。言いよどんだり、やっと言ったことが的外れであったり。言葉よりも無言の拍手や笑顔やハイタッチ、目が合わないこと、見てくれないこと、見てしまうことで次々と事態は動いていきました。

 そのことと主人公タクヤの吃音という、タクヤにとっては紛れもなくひとつの現実であることが、奇妙に影響しあうように見えるところが、私にはかすかに不潔なものに見えました。

 彼の吃音が物語のなりゆきには関係せず、ただ彼の現実としてそこに映っているか、または主題であるかのどちらかならよかったのですけど、この映画では、タクヤやさくら、そして荒川がうまく話せない人物であることが物語を形作っているので、まるで吃音が比喩のように思われ、それはあんまりなんじゃないか、と思いました。

 この映画の良いところは、それでも外が広いという感じがするところです。この三人の外に広がりがあるように見える。

 三人はまだ子どもで、自分がどうしたいかということの前で迷っています。自分に選択肢があることすら、知らないのかもしれません。荒川の頼りなさや迷いやごまかしで始まった、そんな三人の友情でしたが、しかし、そこからもよいものは生まれていき、次の年、さくらとタクヤは出会い直すのでした。それは、映画の後のお話。

❄ おしまい ☃




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