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私信 〜ファイナル〜

家父長 paterfamilias は,奴隷ばかりでなく妻や子どもに対しても(極端な場合)生殺与奪を含めて無制限で絶対的な権力をふるう。家族内のいっさいの権威は家父長にのみ帰属する。家族の財産(土地と動産)はすべて家父長によって専有され,父から息子へと相続される。(改訂新版 世界大百科事典「家父長制」の項目より)

 家父長制はほんとに家族を、社会を隅から隅まで不幸にするなあとしみじみかみしめたこの数日でした。

 ふりかえるまでもなく、血の繫がった親きょうだいが自分のことを人間だと思っていない環境はかなりきつかったです。バリバリの家父長制をとる家では、娘は親の所有物であり、それでいながらいつかはほかの誰かのものになるのであり、「いるうちに奉仕させなければ元が取れない」といわんばかりの扱いを受けるのです。もうずっと前から、母や弟に理解されたいとか、かれらとわかりあいたいなどとは思っていません。そんなことは無理だとわかっているので、もともと期待していない。ただ私が他人だということに気付いてほしかったのです。自分たちの言うことを聞くはずのコマやモノではなく、他人だということに気付いてほしい。私も人間なので、傷つくし、傷ついたら回復の時間が必要になります。支配しようとするのはやめて、もう、放っておいてほしい。それすら無理なら、もう「解散」ということになります。

 昔、ある男性タレントが上野千鶴子と対談して、激高してしまったことがありました。自分は女性がこわいし、女性に気を遣っている、これ以上何を求めるんだ、女の人は贅沢だよと彼が声を荒らげ、上野千鶴子が「そこからか」と言いました。印象的な場面でした。

 私も「そこからか」と思いましたし、「そんなに、そんなことがわからないのか」とくらっとしたのを覚えています。相手を、固有名をもつ一人の人間だと思うことが非常に難しい、その程度のことすら「贅沢」と怒りをつのらせるその地点とは一体どのようなものなのでしょうか。

 どうやら、一度、自分の認識の中で「人間の範囲」を決めてしまって、その認識が「自然」のような状態になると、そこを反省して、「今まで人間だと思ってなかった相手も人間だった」という認識に至るのはとてもハードなことのようです。

 先の話の男性タレントは「人間=男」の世界に住んでいたので、女性は「女」だというだけで気を遣わねばならない、厄介な存在だったのでしょう。いっそ、男だけの世界にいたいとも思っていたのではないでしょうか。そうしたければそうすればいいのに。でも、そういう「男」には「女」が必要なんですね。「女」は自分たちが共有する所有物で、「人間=男」が面倒を見てやらねばならず、「男」と違い感情的なので、いつ怒るかわからず気を遣うが、「女」を所有していなと一人前に扱われないため、手元に置いておけるようさまざまな対処をしなければならない。非常に厄介な、しかし欠くべからざる存在だ。そこを上野千鶴子に指摘され、カッときてしまった。

 今、現に国籍で人を差別している人は、「人間=日本国籍がある人」という認識のもと、それ以外は侵入者かよくてお客さんだという世界で生きているのでしょう。そういう人も何も悪人になりたいわけではないので、他国籍の人になるべく気を遣い、「配慮」しているつもりだが、そうした努力を重ねてなお、「ここで働いてここで生活しているのだから、選挙権を」などと主張されると、カッときてしまう。何を贅沢を言っているんだ、と。

 普段、人間扱いしていない相手を人間扱いするには、「配慮」や「気遣い」「優しさ」などを用いなければ実現しないので、大変な負荷がかかる。

 それに、ついさっきまで非人間的な扱いをしていた相手に急にまともな態度で接するのは無理だ。これまでの自分を反省し、否定し、考え方を変えなければならない。それほどの苦闘のすえに到達する地点が「平等」などでは納得がいかない。

 だから、いくら「やめろ」と言われても、かれらは繰り返すのだと思う。それが差別であること、暴力であることを自覚せずに、目の前にいる人間を「どう扱ってもいいもの」として扱い続ける。

 このエンジンは一度セットされると外すのが容易ではない。当人が「人を傷つける機械」になって家庭生活が破綻してもなお、とりはずせない。そのエンジンは社会の価値観と結びついていて、かれらは社会によって繰り返しその価値観を承認されているから。ちょうど、アルコール中毒の人が断酒に成功しても、街に出ると目の前に現れる飲酒を誘うあらゆる意匠が目に入り、常にスリップの危機にさらされるのと一緒で、時に「ああ、傷つけてしまった」と反省の入り口に立っても、たとえばテレビをつけたらそこでは差別的な表現が流れているわけで、それらによって「あなたは変わらなくていい」と言われているうちに、元に戻ってしまう。

 昨年、維新の会と国民民主党が「多数派の権利保護」という珍妙なことを言いだし、それが法律に反映されるという驚くべきことがありました。多数派が受けられる制度上の保護や行政サーヴィスを少数派が受けられないことが問題になっているときに、もう一回「多数派の権利保護」と言い出すとは。このことを見てもやっぱり「多数派」や「ふつう」という地点から自分を規定するような認識の地点には立たない方がいいんじゃないかと思います。自分がどう思うかではなく、「みんな言ってるから」「それがふつうだから」で確かにするような自信ならもたない方がいいです。

 「人を人とも思わない」とはよく言ったもので、そういう認識をベースに人生を組み立てると、そこから脱するのは容易ではない。ほとんど無理である。それが身にしみてよくわかりました。大事なのは、まだそういう認識がセットされていない人たちの、これからです。なるべく、人間の条件を勝手に定義するようなえげつない認識からは距離を取り、家族だろうと隣人だろうと同僚だろうと、日々、互いに個人として、他者として出会っていくことが大事です。その繰り返しの積み重ねだけが人を差別から遠ざける。別にそこには配慮も優しさも共感もいらない。ただ、ともにいるという事実の中で生きるだけです。

 考えてみると「多様性を認める」という表現もおかしなものです。事実、人は多様で、「認める/認めない」の枠組みで語られるようなことではないです。そう思えない人が頑として認めないのは「多様性」という穏当な考え方ではなく、目の前にいるだれかがとりかえのきかない個人で、人間で、おかしてはいけない領域と身心と文脈と文化と歴史をもっているということ、それ自体です。人権です。そしてそれは現に性差別をし、国籍差別をし、身分差別をしているあなたにもある。あなたはそれを上位者に明け渡してしまい、いつも脅されてる気分でいるかもしれなけど、現実には明け渡そうにも明け渡せないものなのです。だから、目上の人に言われたらどんなことでも黙って受け入れなければならないなんて考えは捨てて、まず自分を大事にしてください。自分が一人の人間で、ほかの誰とも違う実態を生きていて、そこにはどうしてもゆずれないものがあることをかみしめてください。

満開のハクウンボク

「国民は、すべての基本的人権の享有を妨げられない」(第十一条)と言い、「すべて国民は、個人として尊重される」(第十三条)と宣言する日本国憲法の施行を記念する日に考えたこと。




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