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高畑版『赤毛のアン』第 47 章「死と呼ばれる刈り入れ人」

 昨夜は『赤毛のアン』第 47 章「死と呼ばれる刈り入れ人」を拝見しました。月曜日に放送されたものですが、覚悟が決まらず、昨日まで見られませんでした。
 松本侑子訳、集英社文庫版(今出ている文春文庫版がより、新しいです)で言うと、第 37 章「死という命の刈りとり」p. 425 - 430 l.1 に相当します。5頁と1行です。高畑勲版をこの完訳版と比べると、ほぼ原作通りであることがわかります。細かな言葉まで忠実に映像化しています。白い水仙が黄色くなっているくらいで、あとはほんとに、この物語を深く愛した人たちによる、精密な、繊細な映像化だったのだなと思います。
 村岡花子訳、新潮文庫版で言うと、第三十七章「死のおとずれ」p. 412 l. 18 - p.414 l. 13 に相当していて、わずか2頁です。原文から削除されているのは、ダイアナにアンが今夜はひとりでいたい、自分を苦しめるこの「重苦しい傷み」とひとりきりで向かい合いたいと語るところや、マリラが泣き崩れるアンに「私がついているよ。それに私には、アンがいるんだね」と語りかけるところです。そのどちらも、アン・シャーリーならではの言葉であり、ほかならぬマリラ・カスバートが、ほかならぬこの夜でなければ、そして目の前でアンが泣き崩れていなければ出てこなかった言葉です。アンだけの悲しみ、マリラだけの悲しみが出会う重要な場面です。
 高畑版は、神山妙子訳の旺文社版を参照していたとかで、村岡版より原作に忠実だったのですね。高畑版→松本版の順で接すると、ちがいよりも「同じさ」に驚きます。どちらもカナダ版の原作に忠実に、この「赤毛のアン」を理解しようして重ねられた様々な営みが、それぞれに結実しています。
 ところで、私はこの章の直前、高畑版第 46 章「マシュウの愛」、松本版第 36 章「栄光と夢」のラストが好きです。

アンは、いつまでもおぼえていた。銀色の月明かりに照らされ、平和で、美しく、空気はほのかに香り、静寂にみちていた、この夜のことを。それは、哀しみの手が、アンの人生に触れる前の最後の夜だったからだ。ひとたび、その冷たく神聖な手に触れられると、人生は、もう二度と元にはもどらないのだ。   (L. M. モンゴメリ著 松本侑子訳『赤毛のアン集英社文庫 p.424 より)

 「元にはもどらない」は、とても大切な言葉だと思います。たとえば身近な人の死に際して、喪の期間を終え、そして「日常に還る」というようなことを私たちは素朴に口にしますが、現実には元に戻らないですよね。ひとりの死で世界は激変する。その重みのなかでアンも私たちも生きていくのだなと思います。




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