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伊賀難読地名探検3・【生琉里(ふるさと)】地名に込めれた壮絶な歴史を知る

生琉里=ふるさと

 

難読地名ってのは大抵の場合ふ〜〜んそんな読み方するんだで終わるんだけど

今回の「生琉里」(ふるさと)の由来は調べるにつれとても深い歴史の真実が見えてきた

海軍上野飛行場滑走路跡(左手は緑ヶ丘中学)

今年戦後80年になるが、1945年5月終戦の3ヶ月前に運用が始まったこの飛行場は

すぐに爆撃を何度も受けており実戦でどれほど効力があったのかは謎である

先の場所を進むと名阪友生ICの上を通過する。この「友生=ともの」も難読地名である

名阪友生ICの南側が「生琉里」、このあたりもかつては海軍飛行場の一部であった

地区内にある金善池には戦後日本の爆撃機の残骸が数多く投げ入れられたという

生琉里地区の端まで行くと天理教の教会がある

さて生琉里という地名は奈良の柳生の付近にもあってそこにも天理教会が置かれている

ではないか。うん?天理教の施設はどこにもあるけどふたつの生琉里という小さな地区に置かれてるのは何かあるに違いない

調べを進めると「満蒙開拓団」に辿り着いた

1932年満州国建国からほどなくして満州への満蒙開拓移民の募集がはじまった

天理教も教団として移民を募り1934年満州天理村が出来て移住が開始された

その地名こそが【生琉里(ふるさと)】であった。

この地を故郷としようそんな思いで名付けられた、何しろ天理村生琉里への移民の

条件は家族全員だったので日本にはもう家も家族もないすべて捨てて満州にかけたのです。ポスターにある政府の補助1000圓は現在の価値で200万円ほどです

 

多くの民間移民団が失敗する中、入念な計画と準備をして臨んだ天理教は成功し

1945年には2000人を満州天理村生琉里に送り込んだ

 

しかし残酷なもので夢の國満州は、わずか13年で崩壊してしまう

終戦からすぐソ連は満州に攻め込み特に満蒙開拓地は酷い目にあう

満州天理村生琉里にいた2000人の消息も全く不明になり翌年1946年4月になりようやく

情報が入り最終的に日本に帰ってこれたのは1100人

 

日本での再入植を希望したのは264名、そのうち約80名が伊賀の生琉里に再入植した

80年後、今の伊賀生琉里地区は新しい住宅が整備され公民館も綺麗だ

だがよく歩いてみると満州生琉里から引き揚げた当時の面影を残す部分も見受けられた

日本から遠く満州の生琉里(ふるさと)へ夢求め渡った人々は、再び日本でふるさとを求めこの伊賀の地を「生琉里(ふるさと」と名付けたのであった。

※参考資料:満洲天理村移民の戦後―引揚げから奈良・三重での再植民まで(皇學館大学)




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