『ヘンなのはどっち? 反社会学2.0』著者解説
さくら舎
税別1800円
2025年9月発売
書き下ろし新刊としては、前作『読むワイドショー』から2年半ぶりとなりました。
長くかかったのは、私がとても迷っていたからです。自分が知りたいことを調べ、自分が書きたいものを書くというわがままをこれまで通してきたことを、べつに後悔はしてません。
でも50代後半になり、いろいろと思うところがありました。戦前の日本では、50で定年退職して60くらいで死ぬのが普通だったわけですし、寿命が延びた現代でも、50を過ぎると人間は重大な病気にかかる確率が急上昇し始めることに変わりはありません。
私は30代で突発性難聴によって片耳の聴力を失ったこと以外、いまのところ大病とは縁がなく生きてこられましたけど、もう今後はどうなるかわかりません。
そしてここ数年、日本を含めて世界中が不快極まりない方向へと進み出しました。世界は少しずつ良くなっていると楽観的だった私でも、さすがにいま自分が生きている世界の状況を楽観視することはできなくなってきました。
自分がいわなければいけないこと、伝えなければいけないこと、やらなければいけないことは何なのだろうかという考えているうちに、時間が経ってしまいました。
本のタイトルには毎度悩みます。今回もこれといったアイデアが出せずにいたら、編集部から『ヘンなのはどっち?』という案を提示されました。いくらなんでも、それじゃ引きが弱いと感じたので、いっそのこと、自分の原点を忘れない意味と、この20年で深化・進化した意味を込めて、反社会学2.0というのをつけ加えたらどうかとこちらから提案しました。
私は反社会学を、身近な世相や社会問題の真偽を調べる技術だと定義しています。抽象的な社会システム論みたいなものには興味がありません。今作では正義と大義についての章がもっとも長くなってますが、抽象論ではありません。さまざまな正義論を踏まえた上で、明治以降の日本の人々が、正義と大義をどのような文脈で使ってきたかという具体的な文化史に絞って書いてます。原作改変問題と有名タレントによる性加害問題を取りあげたのも、身近なテーマをきちんと調べることで見えてくるものがあるのだとお伝えしたかったからです。
数年前のことですが、こんな意見がありました。『反社会学講座』の頃のパオロは良かったのに、最近はリベラルなことばかりいってるから嫌いだ。
びっくりしました。『反社会学講座』はフリーターもパラサイトシングルも少子化も問題ないなどと、とんでもなくリベラルなことばかり書いてある本ですし、私は当時から現在までずっと変わらず頑固にリベラルです。
私が変わったと感じたなら、それはあなたが保守的に変わったということです。
自分が嫌いなものが批判されてるときは、パオロ凄いと賞賛するのに、自分が好きなものが批判されるとてのひらを返し、パオロはダメになったと全否定する。そういう単純な人もけっこう多いんです。
私は読者のご機嫌をうかがうようなことはしません。読者が喜びそうなことばかり書くつもりもありません。イデオロギーや常識に忖度せず、調べてわかった事実を容赦なく突きつけるだけです。
事実はときに人を傷つけますが、長い目で見れば事実を知ることは救いになります。ウソは永遠に人を苦しめ続けます。
なお、文中のところどころが太字で強調されてますが、私が自分でそれを指定したのは1個所だけです。他はすべて、編集者の判断で重要と思われる個所が太字にされました。
今年、かなり堅めの専門書を読んだときに、文中の重要とされる個所が太字になっていて、えー、こんな本まで……と思ったのですが、いまどきは、読みやすく、わかりやすくするために、そういう工夫も必要なのでしょうね。
第1章 「政治と宗教の話はタブー」は常識? 非常識?
今回は長いテーマが多いので、まずは短いところから。政治と宗教の話はすべきではないという不文律がいつのまに日本に根づいたのかをあきらかにしていきます。タレントや俳優がちょっと政治的な発言や批判をするだけで炎上みたいになるのは日本くらいでしょう。日本人が政治アレルギーになってしまった経緯の一端がつかめると思います。
第2章 原作原理主義vs.表現の自由
このテーマに興味を持ったのは、ドラマ『セクシー田中さん』騒動がきっかけでした。私はあのドラマを毎週楽しみに観てただけに、ラストのぐだぐだが残念でならなかったし、その経緯をめぐるごたごたで原作者が亡くなるという結果に愕然としました。
ただ私は、騒動の際にわき起こった、原作者を全面的に擁護してテレビ局が悪いと決めつける世間の声には疑問を感じました。なぜなら私はドラマも原作マンガも両方とも素晴らしい作品だと評価してたからです。ドラマもマンガも見てないくせに勝手な意見をいってる人が多すぎることには、ムカつきました。
どうしてあんなことになってしまったのか。どうすればよかったのか。それは日テレと小学館の報告書を読んだだけではわからないのです。
だから私は過去の事例を調べるところから始めました。昭和の映画が、原作小説にどのくらい忠実だったのか。脚本家と、原作者である小説家は原作改変についてどう考えていたのか。脚本家の野田高梧、橋本忍、小説家の山本周五郎、志賀直哉などの事例を調べると、映画と原作はどうあるべきかという葛藤が戦前からあったことがわかりました。
マンガの実写化、アニメ化に関しては、『サザエさん』の長谷川町子と『天才バカボン』の赤塚不二夫の意見を取りあげてます。
そうした基礎知識で地ならしをした上で、『セクシー田中さん』の実写化でテレビ局と原作者はどうすべきだったのかを考察しました。
第3章 大義と正義、信用ならないのはどっち?
本書でもっとも長い項目です。なにしろ正義と大義などという大きなテーマを扱うのですから、本来ならそれだけで1冊の本にしてもおかしくないくらいです。私はそれを哲学や思想ではなく、言葉をめぐる文化史としてまとめたことで、明治から平成までを90ページ弱で駆け抜けることができました。
明治時代に「大義」を愛用したのは意外なあの人でした。正義と大義は何が違うのでしょうか。敗戦で地に落ちた戦争の大義を復権させようと企む人がいた一方で、戦後も生涯を通じて戦争の大義を批判し続けた作家もいました。1960年代末から台頭した正義冷笑主義を先導したエッセイストについても言及しました。
そこそこ長いとはいえ、その検証過程はとてもスリリングで、一気に読めるのではないかと自負しております。
この章の記述でひとつ訂正があります。1931年、死期の迫った渋沢栄一が、中国で起きた大水害の被害者を支援しようと国民に呼びかけるために、自宅にラジオ局のスタッフを呼び、機材を持ち込ませて演説したのが、一説によると日本初のラジオ中継だったといわれている、と書きました。
今年出版された『NHK放送100年史』を読んで、これが間違いだと気づいたのは、すでに校了後のことでした……。1925年に名古屋放送局が名古屋市の練兵場から天長節祝賀式を中継したのが日本初のラジオ中継、というのがNHKの公式見解のようです。
第4章 松本人志さんの罪と過ち
私がブログで公表した記事がダイヤモンドオンラインに転載されたことで最終的に400万超えのPV数を獲得し、賛否の大反響を巻き起こしたあの騒動。
私のXアカウントにも読み切れないほど大量のコメントが連日書きこまれました。賛意の数のほうが上回っていたとはいえ、批判、というか誹謗中傷も山ほど届きました。
意味のある批判はほとんどありませんでした。そりゃそうでしょう。私がかなりの字数で書いた記事に対し、数十文字のコメントでまともな批判や反論ができるはずがありません。よって批判的な意見は必然的に、よくて悪口、ひどいのは誹謗中傷になるのです。
誹謗中傷に悪口で返しても不毛なだけなので、私は誹謗中傷を書きこんだ人がどんな人なのかを知るために、その人のアカウントを読みに行きました。日頃どんな書きこみをしてるかを見れば、その人の価値観や人間性がわかるはずです。
見ていくと、彼らにはいくつかの共通点があることがわかりました。詳しい分析は社会学的な調査研究が必要となりますが、本書ではおぼろげながらわかった特徴を簡単にまとめておきました。
松本さん関連の記事はブログに4回書きました。それをひとまとめにして書き直すやりかたもあったのですが、記事発表時の主張と、反響を踏まえての反論や追記をわけて残したかったので、ブログ記事をほぼそのまま転載し、解説をつけ足す構成にしました。
なので、ブログ記事と解説で主張内容が繰り返されてるところもあります。ブログで書き足りなかった点を補うために説明するとそうなってしまうのです。ご容赦を。