蚊帳の外にいるせいかもしれませんが、献身的な人のやりすぎが目につく。気になったら、声をかけることが良いことだと思っているみたい。そこに悪意はない。しかし、それで介入することは、その人が解決しようとしている自発性を奪いかねない。そのお節介さんが引き受けてお節介さんが思う何とかしようになるわけで、その人にとってそれがいいかはわからない。
今回事実に対して聞かれたことに、すんなりと答えられなかった。その事実に対する自分の考えが整理できないからです。
しかし堪えられなくてよいかと。混沌としている内なる自分を、聞かれた相手に合わせて答えをつくるのではなく、自分混沌としているんだなと思う。整理できるまでそれで良いかと。そして、あとで伝えたければ伝えればいい。
人の心に立ち入られたと感じた。そのことに抵抗を感じて、ブロックした。本人は良かれと思って、配慮して声をかけているのだろうけれど、話したいか話したくないかは話す人が決めること。それぞれ人は話したければ、話したい人のところに自分で行く。これはカウンセリングを学んでわかったことかもしれない。
そのお節介さんは、私を気遣って声をかけているのが9割、1割は探り。事実だけを伝えたら、そのお節介さんの解釈を返されました。
それは私の気持ちの一部かもしれないしそうでないかもしれない。しかし、混沌としている気持ちを他人にこうだと決めつけられるのはあまり気持ちが良いものではない。そうされると、相手の枠の中に、自分を入れたいの?と思ってしまう。また、勝手に推測されると、そうされていると感じる。
本人に悪意はない。相手のためにと言っているけれど、私は理解されていないと感じる。相手は私がそう感じたとは思わないだろう。
カウンセラーって、自分の気持ちを安心して話せる存在なのだと思う。自分を否定せず、無条件に受け入れて、共感的に理解してもらえるから、理解されたと感じ自分と向き合えるのだと思う。
カウンセリングを勉強してそういうものかと思えるようになった。クライエントに寄り添うカウンセラーになりたい。
