東京は相変わらず晴れの日が多い
こんばんわ僕です
最近生活リズムが終わっている、その代わりよく寝ている
今年気が付いたことなのだけれども、寝る前の暖房をタイマーで切って朝寒い状態のほうがよく眠れている気がする
何の因果があるのかはわからない
もしくは本当に睡眠の質が良くなっているかも不明である
朝11時ごろまで寝ているので生活リズムが終わっていることだけがわかっている
多分ワザップだと思う
さて、最近何かと世の中がぐちゃぐちゃっとなっているように感じる
これは複雑になっているということを表している気がする
現実に世界を表す言葉について多様な現代では、大まかな記述としての第三世界などという言葉はほとんど死語となった
身の回りもどんどん複雑になっている、キャブレターはバイクしか乗ったことがないがキャブ車にはCPUが無い(オーディオやエアコンなどで部分的にあるかもしれない)
つまり、全部アナログなので壊れたところを時間はかかるがマニュアルを読み込む知識と根性があれば自分で直せた
現代ではスクーターでもフライバイワイヤが採用される時代である
スロットルもブレーキも電子制御で物理的につながれたワイヤーはもうない
アクセルの遊びがちょっと気に食わないのでワイヤーで調節しよう、ということはできない
ECUを専用ソフトで調整をする必要がある
複雑な世の中では簡単なことが見えにくくなってきたように感じる
複雑だからこそ楽しめるシチュエーションだと考えていたが、世の中はそうではないらしい
〇〇ハラスメントみたいなものをどんどん見つけるが、ほとんどが『しょうもない』ことだと思ってしまう
なぜそんなくだらないものをと思うと、たぶんわかりやすさだからだと思う
具体的にはカスハラという言葉が出てきた際、ICレコーダーを使わないで下さいと言われた、という言葉はどっちから出てきたんだろう?と純粋に思った
僕の世界観では『心無い言葉を吐く客』と『窓口にいる客を無碍にするサポート』どっちの話だ?ということ
面倒を持ち込む人間は有史以来ずっといる
イエスも2000年以上前に『汝隣人を愛せよ』とつぶやいたとされている
小さい頃は新聞やテレビは週刊誌とは別物のある意味では『正しい』ことを伝える道具であったはずだ
しかし現代では文春や各種SNS、そして個人での発信のほうが信ぴょう性があるようだ
気持ち悪い世の中だぜ
話がずれてしまった
複雑な世の中で、我々はいったい何のために生きているのだろうという疑問を持つ人が増えている気がする
実際に問題が出始めていると感じている
例えば90年代までは金を稼ぐことに意味があり、家族を作ることも勉強をほどほどにすることにも価値があった
職に貴賎なしという言葉があるが、まさしく賃金の程度はあれ、誰しもが働くことに意味があったのだ
いいか悪いかは別として、生きていることを『誰か』のために使うことができた
もうない実家は建具屋だったが、今ほどサッシなどに規格がなかったため、ドアなどはほとんどオーダーメイドであった記憶がある
知らない誰かの新たな家のために実家ではドアを作っていた
『誰か』のために使う時間に対して給与が支払われ、その給与を作るために売り上げを作り、一時的に会社という人格にまとめていた
そういう社会にあり価値は労働であった
そこだけを切り抜いてしまうと問題を見誤るのでここまでにしておくが、では現代ではどうだろうか
『生きるために金が必要である』ということは間違いない、変わらない
しかし価値について、どうやって金を作っているのだろう?もしくはどうやって金を作ろうと考えているように見える
これはまるで人間が中心にいないではないか
社会とは人のためにあるものだと思っていたが、現代では金のために社会があるように見える
世の中が複雑なことによって、何と中心はずいぶんとシンプルな数字によって形成されているのではないか
物事を抽象化していくと言葉や記号になっていく
しかしその先が一旦金だと思うとずいぶんとむなしい
話はそれるが、日本が世界からどう見られているのかということについて誰かに質問した際に『少子高齢化の先駆者として』と回答をもらったことがある
確かにそれはそうだと思った
また世界的に見ても日本は平均寿命が長い
2022年現在では男性が約81歳、女性が約87歳が平均寿命らしい
おそらくこの平均寿命はどんどん上がっていく
そのような状況で考えられることは2つある
一つは定年の延長、例えば現在では65歳とされていたものが、70歳になったり75歳になったりする
もう一つが仕事という概念が消えるのではないかと考えることだ
各々自分の知っている仕事を思い浮かべてほしいのだけれども、額に汗して働く仕事とは現代においてずいぶんと想像がしやすくなっているのではないだろうか
今すぐに何かがということではなく、自分が還暦になるころには街並みはいったいどういうことになっているのだろう
そういうことを想像するとわからない未来にわくわくもするが、(もちろん当時は影も形もなかったので電文ではあるが)70年の大阪万博のようなドキドキする未来はちょっと想像することがむつかしい
これから先はおそらく知っていることがただ連続していくだけだろう
しかし振り返ると年始にできなかったことが夏にできるようになり、年末に実装され陳腐化する、そのようなスピード感で世の中が改変され、常識が変わっていくのだろう
その時結局わからないものは怖い
目の前には人間がおり、殴るとギャッというシンプルな返事が来る、そういうのが生きてるって感じがするんだよなって思う
でもそれは勘違いだ、君は本当は目の前の人間を殴りたいわけじゃない、世の中に自分がどのような形をしているのか教えてもらいたいだけだ
もちろん世の中は誰も君のことを見ていないような錯覚があるかもしれない
しかし気にすることは一切ない、僕も君も現代では両親がいる(いた)、夕飯のねぎは誰かの畑で作っているもので、スーパーに運ぶまでたくさんの人や場所を経由している
見えていないだけで生きているそのすぐそばでは自分たちのために誰かが今はまだ額に汗して働いてくれている
みらいはどうなのだろう
きっとほとんどのものに価値がなくなり、非常に小さい単位での共生国家のようなものが生まれ、超長寿の社会を作り、緩やかに死んでいくことを受け入れる世の中が来るのかもしれない
その際にはきっとほとんどの意味で正しく『死』というものが理解されており、怖いものではない
栄えることや発展することは人間ではない誰かに任せ、のんべんだらりとずいぶんと長い年月をかけただ生きることを当然の義務として受け入れるのかもしれない
ずいぶんとシンプルな未来が訪れる可能性はあるかもしれない、複雑さからいつの間にか解放されるのだ
まだおいしく食べているだろうか?
昼までベッドの中で起きずにいた日の朝見た夢の内容をエントリにした
書いてて思ったが、人を許したほうがいい、これは自分にも強く感じている
今年は人にやさしく生きるのだ