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具体的になっていく世界と言語化について

あけましておめでとうございますと言うには遅くなりましたが、あけましておめでとうございます。今年もつらつらと書いていきたいと思います。


正直言うとなにか歳をとってきたせいか社会評論のようなものを書くモチベーションがすこしずつ落ちてきている感覚があります。最近は暇があれば散歩やゲームをしたり七輪で魚焼いてビール飲んで昼間から寝ていたり猫みたいな生活をしています。すこし前であればてきとうに本読んでネットを眺めたりして書きたいことが見つかればブログを書いていたのですが、猫のような生活をしているとやはりというかなんというかものを考えなくなりますね。

とはいえ正月からトランプがベネズエラの大統領を拘束、イラン情勢が悪化したり国内も右傾化し始めて物価上昇は収まらず生活は厳しくなっている実感があるのでいまこそ批評が必要な時代になっている感覚もあります。批評が必要といっても今の時代に必要な「批評」とはなんなのか正味よくわからないのも事実でそんなことを考えても詮が無いので諦めて猫のような生活をしていたのが去年なのですが今年はもうすこしものを考えないと駄目だなという自覚はあったりします(去年も同じようなこと書いたな・・・)


しかし本当に今の時代に必要な批評とはなんなのでしょうね・・・

すこし昔であれば近代化していく中でいかに実存を確保するかみたいな話がリアルの行方みたいな言い方をされていたしオタク・ヤンキー・ギャルなどの若者の生態分析やサブカル批評なんかも盛んだったけれどそうした議論も出版不況と共にあまり表に出てこなくなり今は若者分析は愚者の語りとして一顧だにされなくなりました。今は動画メディアでどう時勢を切り取るかというひろゆき的な語りが前景化してどうも批評というにはあまりにも具体的すぎるものが批評の地位を持っている気がしないでもありません。

ひろゆき的語りを反語にするつもりはないのだけれど、僕の感覚で言うと批評は倒錯したもの(感情や時代など)をさらに倒錯させる営みだと思っているのですよね。

人間、生きてればいろんなひずみだったり傷を抱えることがあり、真っ直ぐ生きていける人なんて1割もいないのではないかと思っているのだけどそうしたひずみを抱えたままではいろんな困難も同時に抱えることになるのでそこに言葉を充当したりしてすくなくとも呼吸ができるようにする。それが言葉が人を掬うという批評の役割な気がします。たとえばサブカル分析なんかも社会構造を念頭にこうこうこういう表現が出てきたと語られがちでそこにはオタク的世界観から社会へ接続するための導線が言葉として充てられているけれど、こじつけに近いものだって数多くあったはずです。でもこじつけでもなんでも自らの歪みや偏りが社会と接続しているんだと思えること、つまり倒錯した感情をさらに倒錯させて表に返すことが批評が一見すると倒錯的だけど同時に社会的営みである理由なのではないかと個人的には思います。


そう考えた時に今の時代に必要な批評とはなんなのでしょうか。翻して言えば今の時代の倒錯とはなんなのでしょうか。昔であればオタクやヤンキーに援助交際などが倒錯として語られがちだったけれどそういう特殊なスタイルで生きている人は見なくなりました。アニメは一般的な趣味となり援助交際にもかつてのスティグマが付与されているようには見えずヤンキーに至っては東京リベンジャーズでしか見なくなりました。

というか今の時代に倒錯することがはたして可能なのかという疑問すらあります。ここまで個人主義自由主義が浸透して他人の趣味や生活に立ち入ることが難しい時代ではかつて倒錯として数えられたものはすべてスタイルとして数えられるようになりました。倒錯としてカウントされることがそもそもなくなったため、どんな生き方もどんな趣味もはなっから倒錯ではないのです。結果として世界はごくごくシンプルにお互いを尊重しましょうで物事を片付けることがあるべき態度としてみなが受け入れているのが現状ではないかと思います。逆説的に言えばこのようなシンプルな世界観に反することだけが倒錯として数えられるようになったとも言えるでしょう。ただ、シンプルな世界観はそのシンプルさゆえに切れ味よく物事を取捨選択できてしまうという問題があります。世界が整理され、物事の善悪も整理された時には人々の考え方も整理され、人間も整頓されていっているというのは言い過ぎかもしれませんが、かつて批評がそうであったような倒錯した感情を人間的と見なす風潮はいまや鳴りを潜め、ずいぶん簡単に善悪を決めているような気がしてなりません。


批評は倒錯をさらに倒錯させる営みと書きましたが、言い換えればそれは人間の裏と表を両面として捉えることだったのでしょう。そうした両面的視座はシンプルな世界観においやられ、即物的で表面的で瞬間的で、そしてなにより具体的な見方がいまや支配的に見えます。それは言語化という言葉に象徴されています。なにか問題が起きた時には言葉を充当するのではなくとにかく問題を言語化することが求められます。仕事でも社会現象でもなんでもそうかもしれません。今この瞬間の具体的説明、それがすべてであり、物事に言葉を充てることはもはや要らぬお世話なのです。具体的に物事を解明し、分解し、みなが噛み砕きやすいようにする。善悪ではなく形状を語る。それが言語化として褒めそやされているのが今の時代のように思います。

見方を変えればそれは寂しいことなのかもしれません。批評なき時代では物事が言語化されたとて僕達はそこに解釈を与える言葉を持っていないのですから。かつて批評には倒錯した感情や人間らしさを社会へ返す役割を担っていたと書いたけれど今から思えばその言葉たちにはどこか温かさや隣人らしさがあったように思えます。今こそそのような温かさが必要な気がしていますが人には人の解釈があるという言葉、その使い物にならない短刀だけを懐に忍ばせやり過ごしているのが批評なき時代を生きる僕達の処世術なのかもしれません。




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