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2025年の右傾化(リベラル化)についての考察

 

2025年が政治的にどのような年だったか振り返ると世界中で進行していた右傾化が日本にもやってきた年だと言える。

トランプ現象やBrexitなどが報じられていた頃、日本では安倍長期政権が続いていて様々な問題はあったにせよ政治的には安定していた時期だった。安倍晋三なき後はかつてのような首相が一年ごとに交替する旧自民政権に戻り、さらには公明党が連立を抜けるなど混乱が続くようになった。その混乱に乗ずるかのように右傾化の波が日本にもやってきて今年の参政党の躍進や高市総理の就任につながっているというのがおおよその見方であろうか。


この右傾化に関してだが、理由としてしばしば挙げられるのがリベラルへのバックラッシュであるというものだ。リベラルはとにかく駄目だとそこかしこで言われることがあり、僕もそのように書いたことがあるのだが、思い返してみるとリベラルが駄目だというのはどこからやってきたものなのかよくわからないところがある。そしてあまり振り返られることがない。

一般的に言われるのは欧米のトレンドであるリベラリズムを日本が輸入し、その影響でmetoo運動やラディカル・フェミニズムが社会的影響力を強めアファーマティブ・アクションや大学の女性枠のような様々な議論を巻き起こし、それがSNSをはじめとした各地で軋轢を生んでいるというものだ。しかしながらこと政治に限って言えばリベラル政党である立憲民主党社民党にれいわ新選組が与党になったことは一度もない。翻せば政治がリベラルになったのではなく社会がリベラル化したわけだがリベラル化した社会のその波を受けた当時の政権、つまりは自民党がリベラルな政策を推し進めてきたと言うことができるだろう。現実にリベラルな政策を実行してきたのは自民党であるのだが、そのバックラッシュとして支持を集めるのもまた自民党高市政権となっている。つまるところリベラルと保守という対立は日本では自民党内の力学を変えるためのマッチポンプに過ぎないのであるが、そのような認識が曖昧なまま立憲民主やれいわのようなリベラル政党にその矛先が向けられているのはいささか不可解である。現在問題となっている移民問題に関してもそれを推し進めてきたのは安倍政権の技能実習制度であるし、よくやり玉にあげられる男女平等参画会議に関しても男女平等参画基本法与野党合意で制定されている。リベラルを批判するのであれば日本社会そのものか、あるいはそれを民主的に政策として実装してきた自民党にたいして行うのが筋であり、リベラルに染まった政党や人物をチェリーピックして批判してもほとんど意味がないどころかスケープゴートにしているだけとなってしまうだろう。

とにかくこのリベラルは駄目だという感覚はよくわかるのだが、その矛先がどうもおかしな方向に向いているのがここ数年起きてきたことである。立憲やれいわのような左派に関しては選挙でずっと負け続けている。にもかかわらずリベラルがその影響力を強めているということは社会が左傾化したか自民党が左に旋回したかのいずれか、あるいはそのどちらもというのが正確な認識であろう。インターネットにはある種の特異集団としてのリベラル勢力がいて彼ら彼女らを批判することでリベラルは駄目だという認識が広まっているが、彼ら彼女らがそこまでの影響力を持っているようには思えない。


結論を言えば自民党は昔から右にも左にも振れる政党であるため、問題の本質は社会が左傾化したことにある。そしてこの左傾化というのは日本国内の話だけで言えば地方の東京化ではないかと思うことがある。

東京はメガシティーでいろいろな人・モノ・サービスが入ってくる場所であると同時にメディアの発信拠点にもなっていてそこで発信する人はいわずもがな東京の価値観を内面化している人が多い。地方から出てくる人も東京に住むと東京に馴染み、個人主義やそつのないコミュニケーション能力を獲得し、一部の地方で見られるような摩擦の多い共同体的関係から卒業して滑らかな人間関係を至上とするようになる。一般的な言葉で表現するなら垢抜けるというやつだ。他者を他者として線引きし、人との適切な距離感を大切にするというのは今でこそ理想的な性格として知られるがほんの数十年前まで自己は他者の内にあり他者は自己に内在するのがコミュニケーションの前提にあった。それこそ体罰や叱責のような今ではハラスメントにあたる行為がなぜ行われていたのかと言えば他者を他者として切り離すことが難しいという前提があったからこそだろう。なればこそ自己解釈で他者を変容させようとするハラスメントや指導がある種の正しさをもって行われてきた。しかしながらそうした摩擦のあるコミュニケーションは弊害が大きいということが一般的な認識となった。旧来的なコミュニケーションから抜け出して自己を自己として確立することが自己と他者の自由を至上とするリベラリストの振る舞いであるのだが、そのような振る舞いがリベラルのそれであるとは知らずに「標準」として東京から日本国内に伝播していったというのが社会がリベラル化していった道程である。

そのような、かぎかっこつきだが「東京の性格」がメディアに載る文章や喋りの言外に含まれ、国内に波及していった。さらにはルソーの言うところの一般意志(集合的無意識)が形成され、政治にも反映されるようになった。


さらに言えばこの東京的性格である「そつのなさ」や「標準」が右傾化した理由だとも言える。

言うまでもないことだが標準はナショナリズムや排外主義と相性が良い。右翼は標準を志向するからだ。異分子を許さず郷に入れば郷に従えという言説は今現在多くの外国人に向けられている。日本人には標準があってそれに順応できない外国人は国に帰れというのは右翼の定型句だ。しかしながらその標準はリベラル化した東京からもたらされたものである。かつての日本の標準はかなり毛色が違うものであった。かつての日本では上述したような摩擦のあるコミュニケーションが支配的で個人よりも共同体のほうが強く、個人を個人として尊重する様式はここ数十年で出てきたものに過ぎない。つまり共同体が負け個人主義が勝利したことで標準は変化し、リベラルが志向するそつのないコミュニケーションが現在の標準となったわけだが、そのリベラル的コミュニケーションの様式を本来は共同性を志向する右翼が論拠としているのが今の状態である。


すなわち左傾化が進み、リベラルの振る舞いが発信拠点である東京から地方に伝播し、それが標準になるとその標準をもってして次に排外主義が出てくるようになった。

いうなれば日本では政治がリベラル化したのではない。性格がリベラル化したのだ。その性格を持ってしてアメリカ的干渉主義である政治的リベラルが否定されることになった。

言い換えればもはや日本にはリベラルしかないのである。参政党や高市政権を支持する右翼が大事にしている標準はリベラルのそれであるし、多くの人が支持するコミュニケーションの様式もリベラルであるし、そうした社会の無意識を反映する自民党もリベラル政党であるし、当然ながら立憲やれいわもリベラルである。

そう考えるとリベラルへのバックラッシュというのは途端に意味がわからなくなる。僕達はリベラルを志向する。ほとんど全社会的にそうであるというのに、リベラルへのバックラッシュって・・・一体なにを指しているのだろうか・・・




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