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なぜナショナリズムが保守主義にとって代わったのか、あるいは横丁の蕎麦屋について

先の参政党の躍進においてナショナリズムが話題となった。なぜ今、保守ではなくナショナリズムなのか。それをすこし書いていきたい。

 

保守主義を象徴する言葉としてよく引用されるのが福田恆存の「保守主義は横丁の蕎麦屋を守ること」という言葉である。
人々が息づく場所、そこで生まれる文化慣習、その営みが最終的に国家を支えているという意味と解釈できるが、これは経験としてもよくわかるように思う。

 

僕が小さい頃にはまだ駄菓子屋なんかもあって小さい頃にはよく小銭を握りしめてどの駄菓子を買おうか子どもながらに腐心していた記憶がある。小学校の同級生には団子屋の息子がいて帰り道に彼の家に寄ると「おばちゃん(私の母)には内緒だよ」とお団子を頂いたりした。

今ではあまり見なくなった文房具屋もあった。その文豪具屋は制服の卸しもやっていたので文房具の購入はもちろん上履きやジャージを購入する時もお世話になっていた。また、その文房具屋の前にある自販機でジュースを購入して飲みながら帰るのが日常だった。部活帰りに500mlのコーラを同級生とシェアして飲んでいたのだが、汗をかいた後に飲むコーラはとても美味しかったことを覚えている。

 

横丁の蕎麦屋でも駄菓子屋でも文房具屋でも、飲み屋でもパン屋でもかまわないが、みな心の中に原風景を持っていて、それを懐かしむことを保守主義とちょっと小洒落た言い回しで呼んでいるだけなんじゃないかと思ったりする。つまり「失われてほしくないなにか」があるのが保守主義者の執着であるのだが、そのレンジを最大まで広げると国家にまでその範囲が広がりナショナリズムに接続する。それが保守とナショナリズムの共通項になっている。
ただしがきをするならば保守は小さく始まることにその特徴がある。蕎麦屋でも駄菓子屋でも生活に根ざした場所から始まり、その場所に愛着を持ち、郷愁を抱き、そこに棹をさすことに保守主義の本質がある。しかしナショナリズムはその限りではない。国民国家という体制、日本人という人種に依拠したアイデンティティー、愛国心に根ざしている。つまりナショナリズム大きな物語(ナラティブ)にその特徴がある。保守とナショナリズムの違いはざっくり書くとそんな話であるように思う。

 

このように区分すると今の社会で保守を始めることはとても難しいことがわかる。理由としては単純で蕎麦屋も駄菓子屋も少なくなっているからだ。守るべき横丁の蕎麦屋も守るべき駄菓子屋も、もうないのである。

食材の買い出しに行く際に魚屋に行って朝食用の塩鮭を、八百屋で野菜を、酒屋でビールや焼酎を購入するような習慣はなくなり、スーパーに行ってすべて揃える。それが今の僕達の生活である。そこではかつてのような地元愛やコミュニケーションが生まれるべくもない。同じように蕎麦屋に行くこともなくなりもっぱらファミレスなどのチェーン店で外食をするようになった。地元でやっている蕎麦屋よりもファミレスのほうが多くのメニューを揃えていて価格も安く安心できる食事を提供してくれるからだ。DIYをする時には金物屋ではなくホームセンターへ、映画を見る時はレンタルビデオではなくサブスクで、エアコンが壊れたら地元の電気屋ではなく量販店やネットで用を済ます。そのような生活習慣が当たり前になると地域のつながりは希薄となり、コスパやタイパという概念が、思想としては否定しても生活としては肯定しているような、そんな社会となった。その結果、保守主義の芽が摘まれた。小さく始めることができなくなり生活は初めから大きな資本の内側に飲み込まれているのである。

 

地域で細々とやっていた小売店はコンビニのドミナント出店により淘汰され、商店街はショッピングモールに敗北してシャッター街へ変貌していく中では横丁の蕎麦屋もその居場所を失うことになった。それは単なる資本淘汰に留まらず、僕達がかつて依拠していた思想である保守主義までも淘汰していったのであろう。「守るべき横丁の蕎麦屋」が少なくれば保守主義もその位地を終われ減衰していく。

 

その結果かどうかはわからないが、今般の選挙を見れば明らかであるように、かつて保守と呼ばれていたものはナショナリズムに様変わりしていっている。ナショナリズムはすぐに国家を語るが、国がどうとか、日本社会はどうとか、保守主義者にとって本当はそんなことどうでも良かったのである。地元のつながりを守り仲間と共に経済や社会を回す。その営為が「結果的に」国家をつくるのであって、はじめから国家がどうたらと語ることは保守主義のそれではない。

 

ところで、よく保守主義者は「棹をさす」という言葉を使う。今は亡き西部邁さんもよく使っていた言葉だ。棹をさすとは、言い換えれば軸足を置くという意味であるが、なぜこのような言い回しをするのかと言えば、上述したように今の政治ははすぐに大きな物語に接続するからである。

上述したようにナショナリズムはすぐに国家を語りたがる。リベラルも同じようにすぐに「男女」「差別」「弱者」「被害者」「公正」「自由」だと大きな枠組みで政治を捉える。こうした政治を取り巻く様式は保守主義者から見れば政治が宙に浮いている状態であるのだ。ナショナリストが語る国家にはそもそもなんらの手触りもない。横丁の蕎麦屋がないからだ。一足飛びで国家を考える時、僕達は空想で国のあり方を考える。それもむべなるか多国籍企業のサービスにより生活が回っていればそもそも国家を感じる瞬間はどこにもないのである。

リベラルが語る差別も男女も自由も公正もそれぞれ取り出してみれば人ひとりが考えるにはあまりにも大きすぎる問題である。学者であればまだしもそもそもそんなこと我々小市民には手に負えない。そうした政治の巨大さに取り込まれないためにも自分が自分でいられるための場所が必要であり、そうした自らの実存に依拠することを指して棹をさすという言葉が使われる。

しかしながらこの棹をさすという言葉もいまや随分空虚に響く。インターネットが普及して以降、僕達はみんな情報に基づいた合理性のほうが正しいと思っているからだ。人間ひとりが考えてもたやすく間違う。なので信頼できる書き手やインフルエンサーの意見を参照しながら、データと照らして問題をあぶり出し、その問題にたいして妥当だと思われる政策を提示している代議士を選ぶことがつまり選挙であると、そのように考えがちだ。棹をさして自分の頭で考えることほど愚かなことはない。自分で考えてもその射程はしれているからである。それどころか自分の頭で考えるとその間隙を突いてくるのが今のSNS社会である。マスコミや自民党は間違っていると信じて自分の頭で考えましょうとなった結果陰謀論にハマる人がどれだけ多いことか。もはや棹をさすどころではないのである。蕎麦屋がなくなった状態でどこの誰ともわからない人の言葉に棹をさしたらその根っこごと引っこ抜かれて大変なことになる。

 

話が逸れた。
いずれにせよ保守主義がその地位を追われ、代わりにナショナリズムが再起動したのが今の政治状況であり、この状況は僕達を取り巻く生活様式と連関している。それがどこに行き着くのかはわからないが、スーパーのような大きくて多様な食材が揃っている場所でみなが買い物をするようになれば政治も写し鏡のように物語の大きさと品揃えで勝負するようになる。先の選挙で参政党がそうしたように、である。

そして政治にたいし手触りがなくなり、翻弄され、承認やカタルシスのようなインスタントな反応によって政治が左右されるようになる。さす棹がないとはつまり主体がないということであるが、そこではすべてが相対的なものとなり、ばらまかれた言説の良し悪しを判断する材料もすべからく相対的であり、ただただ事実に依拠するしかなくなり、エビデンシャリズムがマシな思考ということになる。その事実主義をひっくり返すのに陰謀論が使われたりするが、つまるところこうした混乱は保守がその位地を失ったことに原因があるのではないかと個人的には思っている。それを書きたかった。
保守が消えるということはつまり大きな物語が台頭してくると書いたけれど、だいたい、国家だ自由だと口角泡飛ばしながら語るやつはやばいやつしかいないと昔から相場は決まっているのだ。




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