シロクマさんがらしい記事を書いていたので僕も書きたくなってみた記事です。
どこまでも合理的になっていく社会への違和感はみんな感じていて生活を営むための最低限の能力は上がり続けているどころか幸福や恋愛の閾値まで跳ね上がってきているのではないかと思うことが多くなった。
最近、知人に頼まれて町内会で配る資料を作成したのだが、従来であればpowepointやGoogleスライドを使っていたところChatgptを使ったら自分で作るよりも良いものが出てきた。自分で逐一デザインを考えたり文字を打ち込むよりもChatgptに頼んでしまったほうが良いというのはありとあらゆるところで起きていることだと思うのだが、しかして本当にこれで良いのだろうかという気にもなってくる。合理的であるほうが生産的であるし、生産的であるほうが効率が良く、効率が良いほうが趣味に回せる時間も増えてみんな幸福である、と安易に結論を出せるほど人間は単純ではないのではないかと。
Chatgptに関してはいろんなことがニュースになっていて大学では学生がChatgptにレポートを書かせて提出していたりするみたいである。あるいは進路相談、恋愛相談、小さな悩みから雑事、ファクトチェックまで森羅万象あらゆることをChatgptもといAIにカバーしてもらうようにこれからなっていくはずだ。
そうした時、いろんな人が警鐘を鳴らしていることだが、自分で文章を書く能力だったり恋に悩んだりといったこれまでの知的・身体的葛藤は無意味な葛藤となりその位地を失っていくことになる。
単純に考えればAIの進歩や技術の発展に伴う効率化によって仕事を時短できるようになって余暇に回す時間が増えるようになる考えられていた。しかしながら多くの人が感じているように効率化が進めば進むほどなぜか忙しくなる。それはAIに仕事を頼むことが最低限の生活を営む能力になった結果として競争が激化し、ありとあらゆることの基準が上昇したからだろう。
効率化が進んで仕事を時短できるようになれば自分磨きに使う時間が増えるようになる。すると恋愛においては容姿や性格の最低ラインが上昇し、サロンで脱毛するのが当たり前とまではいかないが清潔感程度は備えていることが当然となる。仕事を早く片付ければそのぶん他の仕事や資格の勉強に時間を使うことができるため最低限備えているべき能力が上昇し、市場はそれ以外をふるい落とすようになる(メリトクラシー)。
事程左様に合理性が拡張するとありとあらゆる領域の水準が上昇し、人間に求められる能力が高くなっていく。それをエリートは進歩や未来といった言葉で称賛するが、しかして多くの人が感じていることは「もう無理」という言葉にならない違和感のほうであろう。僕だってもう無理である。精々がChatgptに簡単な資料を頼むのが関の山だ。
・・・どこまで合理的であることができるかのチキンレースはこれからも続いていくはずだ。それは政治的言説でもそうである。
いくつかの人々はもう合理性には付き合いきれないとwokeしたり陰謀論へ堕ちた。しかしまだ合理的であろうとする人々のほうが大勢であるはずだ。しかしそれはもうそれほど長く続かないのではないかと思っている。ゆえん左翼の進歩史観のもとここ数十年の政治は動いてきたと認識しているが、アメリカやイスラエルの様子を見ていると旧来の合理的政治観が裏返るのもそう遠くない。
アメリカではトランプが裁判所の命令を無視して移民をエルサルバドルに送還している様はさながら旧ナチスドイツの全権委任法である。
イスラエルのやっていることは筆舌に尽くし難く人類史に残る蛮行と言って差し支えない。国連を中心に合理的であろうとしてきた近代国際秩序の否定と言って構わないだろう。
政治的な合理性とは言い換えれば法律のことであるが、合理性が極まった時にはその檻を破ろうとしてとんでもない事態が起きる。それがイスラエルが行っていることのひとつの見方であるように思う。
でははたして合理に縛られた僕達個人がもう合理や法に縛られるのはコリゴリだとなって、イスラエルがそうしたように既存の枠組みを否定しないでいられるだろうか。理性的で合理的な近代人というものが果たしていつまで存続可能なのだろうか。そのような問いが浮かんでくる。
たとえば今の日常生活では多くの高齢者がスマホの操作に手間取っているが、僕達が高齢者になった時にはより複雑なデバイスとより複雑になった社会システムが日常を覆っているはずだ。その時、僕達はどこまで合理に沿い、理性を保ち、狂わずに、複雑なものを単純化したい欲望に抗することができるのだろうか。やはり僕には自信がない。
より複雑なシステムが組まれ社会が複雑になっていけば個人の考えが及びうる射程はどんどん小さくなっていく。バカの考え休むに似たりという言葉があるが、社会が複雑になれば全体を見通せる人間がのこにもいなくなる。つまり個人はすべからくバカとなり、どのように作動しているか不明な非人称的システムに従属することだけが唯一合理的かのように振る舞う術になるであろう。
非人称的システムへの従属は今でも起きていて、たとえば安倍政権の時の森友問題がそうだった。森友問題の時に財務局の振る舞いが忖度ではないかという疑惑があった。当時は安倍元総理が指示を出していたのではないかと議論になったが、確たる証拠はなく忖度だろうという結論になったわけだが、安倍元総理が直接的な指示を出さなくとも官僚システムが近畿財務局の職員にたいし静かに、無形の圧力をもって忖度するように告げたのだろう。つまり忖度とは非人称的かつ非言語的な支配構造であると言えるのであるが、政治に限らずともインターネットで起きていることも同じであることが多い。
たとえば炎上に関して燃やしているのは極少数の人間であることがわかっているが、一度炎上すると野次馬が集まってきて、さらに物見遊山にきたユーザーが大量に集いインプレッションが膨大な数となりなにかただ事ではないことが起きている、かのような錯覚を覚える。
しかしながら起きているのは極少数の人間の好き嫌いが延焼したに過ぎない。実態はその程度のものであるにも関わらず炎上が起きるとその背景を分析して企業はガバナンスを整備するようになり、個人は炎上しないよう立ち振舞いを変えざるを得なくなる。ようするに炎上とは非人称的な脅迫装置であると言えるだろう。非人称的、つまり誰に言われたわけでもないにもかかわらず僕達はそれに従わざるを得ないし、あるいはそれに従うこと、そのシステムの役人になることが合理的であるとさえ思っている。
このように政治の現場やインターネットによって僕達は非人称的なシステムに晒されているわけであるが、それに従うことに慣れた時、はたしてより複雑で正体不明なシステムがやってきた時に僕達はそれにたいし考え、批判することができるだろうか。いや、あるいは疑うことさえできなくなるのではないか。より高度でより複雑になった合理性は多くの人が思考する射程の外側から「これが合理的である」と告げてくるに違いない。そうなれば合理的であることを放棄する人が出てきて人間は先祖還りをするようになって中世的で動物的な世界へと巻き戻ることになるはずだ。なぜなら理解不能な合理性は魔術や神話と見分けがつかないからである。そうなればトランプのように声が大きいことがつまり政治となり、イスラエルのように複雑性に耐えられなくなった時には世界を単純化するような暴力がその威力を増すようになる。
つまるところ社会システム及びシステムがもたらす合理性とは非人称的であり、主体も客体もない幽霊のようなものである。誰を批判すれば解決する代物ではない。幽霊に誘われれば忖度が合理的となるため個人の主体性は消える。幽霊に反発すれば世界は巻き戻る。僕達にできることはその幽霊に怯えないこと、ただそれだけであるように思う。