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ステイホームは終わっていない

最近の報道を見てるとリスクヘッジとして女性を飲み会に誘うことが少なくなっていきそうではあるけれど、思い出すのがコロナ禍でジョルジュ・アガンベンが炎上していたことである。

アガンベンはコロナ禍で各国が外出を禁止するなど緊急事態宣言を発令したこと、そして生きることが至上の価値となったことを疑問視していた。通常の国家運営では議会が憲法に則り、デュープロセスを踏みながら政策を立案・施行する。それが「通常状態」であるが、憲法に明記されている移動の自由・集会の自由を超法規的に制限することを「例外状態」と呼び、その例外状態に従うことは危険であると述べて炎上していた。

アガンベンの主張は当時では受け入れがたいものであったことは確かだ。しかしアガンベンが例外状態を批判していた理路は明確である。コロナ禍では生きることが全社会的な大義とされていたが、生きること自体を一義的なものにすることは大変危険な考え方である。それは国家にたいし憲法を踏み越える口実を与えることになる。また、生きることが至上となった社会では生者の権力(生権力)が過剰になり死者の権力である歴史・伝統・文化などの価値が結果的に棄損されていくことになる。さらに個人の実存レベルでも、これはよく言われることであるが生きること自体を目的にすると生きることの厚みが薄れていく。

パンデミックに端を発する生きることを至上とする社会では例外状態が必要とされていたことは間違いないが、例外状態はそれ自体が国家・社会を蝕んでいく価値殲滅的パンデミックであるため、それに抗する言論を展開していたアガンベンは勇気ある言論人であったと記憶している。

 

アガンベンは上述したような生きることを至上とする価値観のことを「剥き出しの生」と呼んで批判していたことを念頭に最近の報道を見ると「剥き出しの性」とでも呼ぶべき正しさが社会を再びパンデミックに陥れようとしているのではないか、と思うようになった。

これはなにも言葉遊びではなく割と真面目にそう思うのだが、今の社会で何が至上の価値として影響力を持っているかと言えば「セックス」がその筆頭にあげられる。コロナ禍で不要不急の外出が大変な批判に晒されていたようにわけのわからないセックスをすると大変な批判を受け、場合によっては職を失いかねない。

表に出てくるような芸能人やインフルエンサーのみならず、一般的な勤め人であってもセクハラには注意しなければならずそのための窓口(産業医、ハラスメントの相談窓口、人権デューディリジェンス等)が設置されている企業もある。

言うまでもないことだけれど、通常、人間はセックスをする。さらに言うまでもないことだけれどセックスをするとなにごとか起きる。不倫、浮気はわかりやすいトラブルが起きるけれど周囲の人間関係がこじれたり友情がうまくいかなくなったり、逆にセックスしたことで恋人になったりセフレになったり結婚したりと一線を越えると通常状態から例外状態へと関係性が移行することがある。

言い換えれば、例外状態へ移行することがセックスの通常であるのだが、この例外と通常の線引きをしようとしているのが今の社会なのであろう。

これまでの社会ではレイプは刑法によって禁じられており、不倫は民法によって離婚自由にあたることが一般的な判断であった。それ以外のセックスに関してはプライベートのことなのでよくわからない。人のセックスを笑うな、というのが一般的な解釈であったように記憶している。

その判断が崩壊し、同意のあるセックスかそうでないかということが社会的な生死を分ける材料へと変化していった。優越的地位にあるのか、利害関係はどうか、本当に同意だったのか、その時の場の圧力は、女性の心身の状態は、お酒を飲みすぎていたのではないか、といったコンディションをすべて勘案したうえで大丈夫であればそれは良きセックスであり、そうでなければ性加害であると。しかしながらそうした諸々の条件は外部から見てもよくわからないのはもちろん当事者であってすらよくわからないことがある。なにかそういう雰囲気になったから、というのが大半だろうけれど、相手はその限りではないことがある。最終的にはあなたの赤とあの人が見てる赤は本当に同じ赤なのか、と哲学めいたことを言い始める始末になる。

そうした曖昧で目に見えないことにみなが注意し始めているのはコロナのそれと酷似している。ウィルスは目に見えず、感染していても自覚症状がないこともあり、当時はマスクが有効ではないという報道もあった。そのため全社会的に不要不急の外出が制限されることになった。言い換えればみながウィルスの不確かさに恐怖し、できるだけリスクを排除するように行動していた。

セックスとウィルスが類似しているのはこの不確かさにある。赤が同じ赤ではないかもしれないという不確かさ、相手が合意していないかもしれないという不確かさを排除できない。それはコロナ禍でどれだけ注意しても感染してしまうことがあったのと同じなのだ。

コロナが社会を覆った時、僕達はその不確かさにひれ伏し、ありとあらゆるリスクを排除しようと努めた。アガンベンはそれを批判した。生きることを至上とすることは国家・社会を蝕む別のパンデミックをひきおこすと。

ではセックスの不確かさにひれ伏している今はどうであろうか。セックスの不確かさにひれ伏すことでセックスそれ自体のリスクは減るようになった。単にみんなリスクヘッジとしてセックスしなくなったからである。しかし別のパンデミックが起こっていないか。そしてこのセックスを統制するという例外状態を解消する術はあるのか。

 

というか僕達はまだ「自粛」や「ステイホーム」から抜け出せていないのではないか・・・最近せつにそんなことを思うようになった。




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