以下の内容はhttps://plagmaticjam.hatenablog.com/より取得しました。


セロトニントランスポーターと日本社会

日本社会の再就職の難しさについて書かれた増田を読んだのですこし

子どもの不登校で離職しかけてわかった。日本に足りないのは「経済成長」「弱者救済」よりも「普通の人が転落しない制度」だと思う

 

よく言われる話で僕も増田と似たような経験がある。一度落ちこぼれた人間が再び社会に出ることが厳しいはよく聞く話だ。

履歴書に空白期間があれば必ずと言っていいほど説明が求められる。今はそうでもないが年齢を重ねれば未経験から中途採用されるのはどの業界であっても難しかった。そうした前提が強迫観念として機能することで労働者が再就職にたいして二の足を踏むため社会全体としても保守的となり雇用の流動化を妨げているため経済成長できずにいるみたいな説明がされることもある。

「無職になることやメンタルが調子悪くなるなんて誰にでも起きることなのに」

「人生を通して健常に生きられる人なんてどこにもいないのでは」

「50年間働き続けるのは無理がある」

などいろんな言い方ができる問題であるが、今はメンタルヘルスに関する社会の理解も進んでいて一度ドロップアウトしてもけっこういろんな制度(職業訓練、サポステ、孤立支援、各種作業所、等々)があるので昔よりかは幾分マシになっているのではないかと思う。

ただ、経験的に言えば再起することの困難さは個々人のメンタルに依存する部分が大きいように思う。いくら制度として整備されても実際にそういう状況にある人にとってみればなにか社会に受容されうるのだという「しるし」を求めていることが大半であることが多く、そこは制度というよりも空気をいかにつくるかみたいな話にならざるを得ないはずだ。

その空気をどのようにつくるかに関しては難しすぎて手に負えないのだが、ひとつ言えることがあるとすれば日本人はどうも悲劇に遭遇した時のダメージが遺伝的に大きいようなのだ。

「落ちこぼれた人間」が抱えるダメージもとい悲劇に遭った時のダメージの大きさが実は遺伝子によって違うのではないかというのが近頃わかってきたみたいなのですこし紹介してみたい。僕も半可通なので詳しくは調べてみてほしいのだが橘玲さんの『もっと言ってはいけない』によれば気分や不安に関わる神経伝達物質であるセロトニンを運搬するセロトニントランスポーターは人種によってその類型に大きな違いがあるようなのだ。セロトニントランスポーターはSS型、SL型、LL型に分類され、順に悲観的になっていくと言われる。SS型は楽観的に物事を捉え、LL型は悲観的に物事を捉える。この類型には人種が深く関わっていてアフリカではSS型が40%で日本人はわずか4%がSS型である。これが日本人が悲観的に物事を捉えがちだということを遺伝的に裏付けるエビデンスとして取り上げられていたりうつ病が日本の風土病と呼ばれる所以ではないかと言われている。ただ、セロトニントランスポーターはどうも単なる楽観と悲観の二元論では説明がつかないということが近年わかってきたようなのだ。

結論から言えばLL型は幸福にも不幸にも敏感に反応する特性を持っていて、逆にSS型は幸福から受ける効用が小さく不幸から受けるダメージも小さいようである。

これは経験的にもよくわかることで日本人は小さなことに幸せを見つけることが得意だ。お茶を淹れた時に茶柱がたっていることを幸運だと思い、トイレが綺麗なだけで安らぎ、なんでもない食事に喜びを見出す。「小さなしあわせ」を探させたら世界でも指折りの国である。日本に住んでいると他の国がおおざっぱであるかのようにすら感じてしまうだろう。ただその代償として不幸から受けるダメージも大きい。

話を戻すとそれが「落ちこぼれた人間」が再起することの難しさにつながっているのではないかというのがこの記事で書きたいことである。

僕達は遺伝的に繊細な受け止め方をしがちである。だから無職になることやメンタルを崩すことがなにか一大事かのように感じてしまうが、定量的に見れば実はそれほど大した話ではない。人の不幸の度合いを勝手に見積もることほど最低なことはないので一概にどうこう言える話ではないのだが、すくなくともたいしたことない悲劇なんてすべて遺伝子のせいにしてしまえば良いのだ。僕達日本人が感じる不幸は「文字通りの量の不幸」ではないのだから。

なんて言ってもそんな言葉遊びでどうにかなるほど簡単な話ではないのだけど・・・心持ちとして、ね

 

「セロトニントランスポーターとは?」
セロトニンは、人間の情動(不安・抑うつ)をコントロールする神経伝達物質のひとつです。セロトニンは、神経細胞で合成され、神経終末(前シナプス)に運ばれてシナプス間隙に放出されます。放出されたセロトニンは、後シナプスの受容体に結合し、情報伝達を行います。放出されたセロトニンの一部は分解されますが、一部は神経終末 に回収され、再利用されます。この神経終末でセロトニンを再回収するのがセロトニントランスポーター(以下SERT)です

 

セロトニントランスポーターに関する研究

ブログを書けば文章がうまくなるなんて嘘ですよ

証拠はこのブログです。


正確にはブログを書き続けると瞬間的にうまくなるけれどそれはけっこう一時的なものだよって話です。

長年ブログを書いているとモチベーションがある時期とない時期があるのですがモチベーションがある時期は書くことに関して考えなくなって喋るように書くことができるけれど、しばらく書いていないと文章を文章として成立させようと考えるようになって書けなくなるのですよね。もっと正確に言えば書くスピードが遅くなると言ったほうが適切かもしれません。下手に論理構成を気にし始めたり書くのが遅いので接続詞が意識的になって不自然になったりそもそも文章がつながっていないなんてことも起きたりして数少ない読者や迷い込んだ羊さんはさぞ迷惑してると思うのですが、僕のバロメーターだと2週間書いていないと書く能力みたいなものは振り出しに戻って1から引き出しを開けないといけないみたいな感覚があります。

そこで頑張って書いていると喋るように書くことができて3000文字書いても1時間そこそこで書き終えることができるのですが書いていない時は一度書いてはやめて、読み返して、書いて、やめて、ネットフリックス見て、お酒飲んで、酔った勢いでまあいいかと思って公開してみて翌日見たら変な文章書いているやつがいると自分に自分でつっこみ入れる、だけなら良いのですが稀に変な形で伸びて辛辣なコメントをいただくみたいな記事がこのブログには2割ぐらいあるのではないかと思います。


というかもっと直接的に言えば、これは僕の気性だと思うのですが、手に余ることを書きたくなる傾向があるのですよね。世界がどうなってるとか、社会とは、みたいなそんな巨大すぎる話をそもそもできるほど卓越した人間ではないくせに日常が日常的すぎるせいか反動で大きな話を書いてきた結果わけのわからない文章群がインターネットの片隅に残ったというのがこのブログの実態です。

そんなもんなので、すこし笑ってほしい話なのですが、Chatgptに「メロンダウトというブログを知っていますか?」と質問したところ典型的な意見ブログと評されていました。

典型的という言葉に傷ついたので「本人です。謝ってください」と返したところフォローをいれつつ素直に謝ってくれました。けれどまああまりにも的を射ているので自分のことながら納得した部分もあります。


なんの話だったっけ。

ブログを書いていると文章がうまくなるのか問題でした。ひとつ言えることはブログを書いているとブログが残ります。文章がうまくなるかどうかはよくわかりません。個人的にはあんまりならないんじゃないかなと思います。『日本語の作文技術』やネットに転がってるライティング講座を受講したほうが文章自体はうまくなりそうです。少なくともブログをかいているだけではあまりうまくなっている実感はありません。僕の場合は「ブログを書き続けると書いている時期だけ早く書けるようになる」です。僕の場合なので他の方は知りません。唯一確かなことは書いたことが残ることです。それだけが唯一言えることですがそれになんの意味があるのかはよくわかりません。将来死ぬ前にベッドで横たわっている時に暇なので読み返して懐かしんだり後悔したりするのかもしれませんがまあでも死んだ後に残ったからといってそれに何の意味があるのかもよくわかりません。お金が稼げるわけでもなく自らの恥部を後悔するような文章を垂れ流すことに意味を求めていたらこんなに長いこと書いていないので長年書いているブロガーにとってブログとはいつのまにか自己に取り憑いた宿痾みたいなものなのでしょう。で、それでいいのではないかと最近は思っています。

 

現実的に始まった戦争の現実について考えてみる

イスラエルとアメリカが戦争を始め、ホルムズ海峡が封鎖され、イランが報復攻撃を開始して世界中がとんでもないことになっている。日本も軍拡するかどうか早晩選択を迫られるのかもしれない。そのために憲法9条を改正するのかについてもいずれ決定しなければならなくなる時がくるはずだ。


最近のニュースを見ていると国際法が機能していないと言われている。ロシア・アメリカ・イスラエルは自国の都合で戦争を始めていて国連とは・・・みたいなシンプルな感想を持ってしまう。日本でも防衛の議論が活発になっていてとりわけ左派の護憲主義はいまや現実的ではないと言われている。「力による現状変更」がここまで大々的に行われると左派が唱える平和主義や非武装非核化によって平和が守られるという話が現実的ではないのはそのとおりだと思うのだが、同時に思うのはこの「現実的」という言葉こそが戦争の火種になっていやしないかということである。


ロシアがウクライナへ侵攻を始めたのはNATOの東方拡大が契機になったと言われていて西側勢力が現実的な脅威として差し迫ってきたという理由があった。

アメリカによるイランへの爆撃もアメリカ側の言い分としてはイランの核開発が現実的な問題として差し迫ってきたことが原因と言われている。一部報道でイランが核開発を進めている証拠は見つかっていないと報道されているがアメリカ(トランプ)の見立ては違うのだろう。


いずれにせよ戦争は現実的理由によって始められる。しかしながら現実の前提を考えてみると途端に非現実的に見えてくるから不思議だ。NATOが東方拡大した結果、ロシアが糾合され、ウクライナが領土的野心を持つのは非現実的だ。イランが核開発に成功したとしてアメリカ本土を爆撃することはあまりにも非現実的に聞こえる。


戦争を始めた理由だけを取り出してみると現実的であるが、その前提を見ると非現実的なものに聞こえるというズレがある。非現実的な前提が潜在的な脅威として認識された時にそれが現実にならないよう取り除く段になると途端に現実味を帯びてきて、実際に為政者は現実という言葉を持ち出すようになる。

なぜこのようなズレが生じるのか考えると、現実という言葉にはある種の恣意性やグラデーションがあって、何がその人やその国の現実であるかというのはかなり曖昧であることが原因なのではないかということだ。日常生活でもよくあることで僕達は折りに触れ現実を見るという言葉を使うが、ある人は真面目に働くことに関して現実という言葉を使い、ある人は年齢相応の振る舞いのことを考える時に現実を持ち出す。スポーツ選手は自身の能力のことを現実と呼び、転職サイトを眺めている人は自身のキャリアのことを現実と認識している。つまるところ現実とは極めて曖昧な言葉であって、個々人によって何を現実と呼ぶか、その具体的対象が違っているのだが、その曖昧さゆえに他人からすると非現実的な前提が横たわっていることがある。

左派は憲法9条が日本の平和を守っていると考えているがその前提には国際法があり、それは右派からすれば非現実的な前提である。右派は憲法改正によって自衛隊を軍として規定することで自主独立の道を目指すことが現実的だと唱えるが、左派は中国が戦争を始めた場合に守ることができるという前提は非現実的だと言う。

どちらが現実的かというのは人それぞれあると思う。ただ共通しているのは国際法が日本を守ってくれるという前提と中国が攻めてくること、どちらも今のところ非現実的であるということだ。しかしながら自衛手段としてどちらを選ぶのかという議論になった時には現実という言葉がいきなり立ち上がってくる。


アメリカもイスラエルもロシアも、そして日本の軍拡論争も非現実的な前提が現実にならないよう事前に対策することを現実的と呼んでいるのだが、この現実的という言葉をどこまで拡大しないでいられるのかがなにかとても重要なのではないかと思うのである。理由としては単純で戦争に限らずあらゆるところに非現実的な脅威は潜んでいるわけでそれらすべての前提を排除することが(仮に前提が突拍子もない非現実的なものであろうとも)現実的手段であると、そのように呼ぼうと思えば呼べてしまうからである。

だからと言って現実的であることをやめるわけにはいかないし単に非核三原則を守れば良いという話ではない。脅威に対処するために政治家はみな骨を折って考えているのだと思うけれど、それを判断する有権者として思うのは現実という言葉はけっこう危ういものであると注意しておいたほうが良いのではないかということだ。僕達は現実という言葉を聞くと前提にあることがいかに空想めいていようとも途端に具体的なものであると錯覚してしまうがその具体性にはかなり大きな棘があることが少なくない。そしてそれは刺さるまで気が付かないことのほうが多いのではないだろうか。

なんてことを考えてみても人々の現実観が変わるなんて話はそれこそファンタジーでしかないわけで・・・




以上の内容はhttps://plagmaticjam.hatenablog.com/より取得しました。
このページはhttp://font.textar.tv/のウェブフォントを使用してます

不具合報告/要望等はこちらへお願いします。
モバイルやる夫Viewer Ver0.14