2025年は新しい漫画に挑戦しまくってる年でもあって、
「お、面白そうだな」と思ったらサクっと漫画を買うようにしてます。
今年は自分でzineを作って、10年以上ぶりに即売会に出たから、
「生みの楽しさ」そして「生みの苦しさ」を知ったからこそかもしれません。
同じ創作活動をする人を題材にした漫画、面白いだろうな
と思ってワンピース最新刊の発売日に一緒に買ったのが、
文村公先生の『マンガラバー』1巻です。アフタヌーン連載。

あらすじはこんな感じ。(公式サイトから引用)
漫画編集者3年目の柳井(やない)は、新宿歌舞伎町のトー横で取材中に、少女・美澄(みすみ)に「マンガを見てほしい」と声を掛けられる。
いままで堅実に作品立ち上げを行ってきた柳井だったが、美澄の粗削りでありながら心を打つネームの圧倒され、彼女を担当し連載を目指すことを決心する。
だが、彼女には家も金もない……。
若い作家と編集者が、作品で世界に感動の鉄槌を下すべく、奔走する下剋上の物語。
読んでみてどうだった? と言われると
これ、『あしたのジョー』じゃん(好き)ってところでしょうか。
以下、読んだ方向けの感想になりますので、よろしく。
子どもの居場所と創作活動
生活の中で、主人公の三澄と同い年ぐらいの子どもと彼ら彼女らの居場所となっている施設に関わることが結構高頻度であるんですが、
うまく自己表現できずによくない発散の仕方をしちゃう人、結構います。
自己肯定感低いから大声出したり、モノ壊したり。
私の手の届く範囲では「トー横に行ったり」はエンカウントしたことはないんですけどね。
何にみんなが飢えてるかっていえば、創作畑の人間からみると
自己表現をどうしていくかだよな、って思うんです。
一般ルートの学生してれば、部活だ勉強だ、友人や恋人や家族だといるわけですが、
もちろん全員が全員そうじゃない。
いろんな形で自己表現をしようと思ったとき、
この作品の様に「漫画を描く」という選択肢が当然のようにあってほしい、と個人的には思います。
編集者の存在について、改めて思うその大切さ
最近読んでる同じ「漫画家マンガ」としては当然『モノクロのふたり』を思い浮かべてしまうんですが、
アイデアがあっても一人ですべて完結するもんじゃないんだよな、創作は。
と思わされます。
美澄のような人物がいても、発掘は仮にできたとしても作品とて完パケにするってのは伴走者たる編集者、もう一人の主人公柳井のような存在は不可欠だなと。
「サンバルカン」も一人より二人がいいって言ってますしね。
話がずれましたが、
ありあまるエネルギーを正しい方向、出力に変換できる人ってすごいなと思います。
『あしたのジョー』における、丹下段平みたいな。
私は仕事でも私生活にしても、どちらかといえば……と言わなくてもエネルギー放出過多タイプなので、
編集者タイプの人がいるとうまくやれて、日々感謝してるタイプだからかな。
なのでいうまでもなく、自身は編集タイプの仕事は本当に苦手だったり。
自分で言っててアレですけど、この漫画って令和における『あしたのジョー』だよな…?!
美澄もジョーも境遇は似てるし、お互いにガチの原石だし……
よいトレーナーに巡り合うし……
惜しいなと思ったある一点
「惜しい」なんて言い方、偉そうに感じられてしまうと思うんですが、
「憧れの漫画家の側に置いてもらえる」ことになって、1巻は終わるわけですが、
なんかこの展開ってお約束過ぎやしません……? って読後の正直な感想。
これが「漫画まんが」のセオリーなんじゃい! って言われたら何にも言い返せないところではあるものの、
なんかもうワンクッションほしかったな。
でもそうすると1巻でこの終わりにならないから2巻以降を買おうという購買欲が……なんて考え始めてしまい……
(すみません、なにせ名作『バクマン。』読んでないもんですから……)
バトルものと違って成長をするにあたって、ライバルと戦えない主題ならではなのかもしれませんが。
逆に意外だなと思ったのは、美澄の応募作『あの人』が1巻ではどんな話か、どんな絵を描くのかにはフォーカスが当たってないところですね。
『モノクロのふたり』は絵と内容をレベル上げしていくのがカタルシスの根源にある作品でしたが、
『マンガラバー』は美澄が今後どう「不運な少女」から創作を通じて、人間として成長していくのかが主題、でしょうから作中作品の詳細については
大きく取り上げるもんでもない、
「漫画家マンガ」でもそれはアリなんだ。
と同時に思わせてもらいました。