癌とエイズについての古典的エッセイを併録
このほど岩波文庫から刊行された『隠喩としての病い エイズとその隠喩』は、スーザン・ソンタグの二つのエッセイを一冊にしたもの。「隠喩としての病い」は1978年、「エイズとその隠喩」は1989年に書かれている。前者は1982年に、後者は1990年に邦訳の初版が出ていたそうだ。二篇合わせても200ページ程度の、あまり長くない本となっている。富山太佳夫による翻訳。
先に書かれた「隠喩としての病い」は癌と結核についての文章で、著者本人が癌に罹ったことをきっかけとして書かれたという。そして、この文章の目的はとても明確だ。
それは、癌にまつわる隠喩と神話、つまり世間における、癌についての必要以上にネガティヴなイメージを払拭すること。
著者は自分が癌に罹患したことにより、癌にまつわるそのようなイメージ、あるいは物語が、患者をとても苦しめることを実感した。そして自ら、それらを批判するために筆を執ったのだ。
まずは冒頭に置かれた序文を見てほしい。この文章の簡潔さと明快さは、ソンタグの批評の真骨頂という感じがする。
病気とは人生の夜の側面で、迷惑なものではあるけれども、市民たる者の義務のひとつである。この世に生まれた者は健康な人々の王国と病める人々の王国と、その両方の住民となる。人は誰しもよいほうのパスポートだけを使いたいと願うが、早晩、少なくともある期間は、好ましからざる王国の住民として登録せざるをえなくなるものである。
私の書いてみたいのは、病者の王国に移住するとはどういうことかという体験談ではなく、人間がそれに耐えようとして織りなす空想についてである。実際の地誌ではなくて、そこに住む人々の性格類型についてである。肉体の病気そのものではなくて、 言葉のあやとか隠喩として使われた病気のほうが話の中心である。私の言いたいのは、 病気とは隠喩などではなく、したがって病気に対処するには――もっとも健康に病気になるには隠喩がらみの病気観を一掃すること、なるたけそれに抵抗することがもっとも正しい方法であるということだが、それにしても、病者の王国の住民となりながら、そこの風景と化しているけばけばしい隠喩に毒されずにすますのはほとんど不可能に近い。そうした隠喩の正体を明らかにし、それから解放されるために、私は以下の探求を捧げたいと考えている。(「隠喩としての病い」冒頭部分)
上記の引用だけで、もうこれ以上なにも紹介する必要がないのではと思ってしまうけれど、とはいえもう少し詳しく内容を見てみよう。
著者が注目するのは、結核と癌という二つの病気にまつわる似通った隠喩と神話の数々、そしてそれらの辿った運命の違いだ。
結核と癌、それぞれについての迷信や「隠喩的使用」は、近代以前から同じように見られた。どちらの病も、情熱に関するものだと見なされてきたという。例えば結核は情熱の過多による病であり、逆に癌は情熱の不足による病だというように。内に激しい情熱を秘めた者は結核にかかり、情熱を過剰に抑圧した者は癌になる、という考えがあったそうだ。
それゆえ結核は、恋愛や芸術などに関わる、ある種のロマンティックな性格を与えられるようになる。これを読んでいる方も、昔の文学作品などで結核をわずらうキャラクターに触れたことがあるのではないだろうか。対照的に、癌の方は恥ずべき病気だとされ、またより大きな苦痛を伴うものだと考えられていた。著者は多くの文学作品から、このような観念が描かれた部分を抜き出し、当時の人々によっての結核と癌の神話を繙いていく。
また病気にかかることを懲罰として捉える考え方も根強くあり、特に癌についてはその傾向が強いという。人はしばしば、病を社会的・道徳的な不品行に対する罰だと見なすのだ。著者はこの側面についても詳しく分析する。
そして、このような結核と癌についての神話は、それらの病を隠喩として機能させるようになる。その際も、結核は情熱や創造性を表すポジティブな隠喩として、癌は端的に悪いものを表すネガティブな隠喩として使われる(「社会にとっての癌」「組織にとっての癌」などのように)。
ところが、結核の原因が細菌であることが解明され、また20世紀中葉に治療法が確立されると、結核についての神話と隠喩は雲散霧消してしまう。そういったものは結局、原因も治療法もわからないがゆえのものだったということだ。無知と恐怖が、病に過剰な物語を与えるということだろう。
そしてソンタグは、癌についての物語もまた同様だということを示していく。癌の根本的な治療法は残念ながら見つかっていないけれども、しかし、癌についての無根拠なイメージが生み出される機序は、結核の場合と変わらない。
著者は後半に収録された「エイズとその隠喩」の中でこの文章を振り返り、その目的は「無用な苦しみを和らげること」だったと簡潔に語る。癌患者を苦しめるイメージや物語を徹底的に解体し、それが迷信であることを示すこと。
ソンタグはまた、そのような神話は結局、人々が自分たちの生きる社会について感じている諸問題を癌に反映させたものにすぎないとも語る。問題は癌そのものではないのだ。
癌の隠喩が見事に映し出して見せた諸問題が解決されるよりずっと以前に、癌の隠喩の方が廃語になっているだろう。私はそう予言したいと思う。
(「隠喩としての病い」第9節より)
政治的に利用される疫病のイメージ
自身の癌体験から書かれた「隠喩としての病い」から約10年後、エイズの流行に際して書かれたのが後編に収録された「エイズとその隠喩」だ。
80年代初頭に発見され、このエッセイの執筆当時には大きな社会問題となっていたエイズにまつわる言説に、ソンタグは再び癌や結核におけるような神話の発生を見出し、「最近では、癌の背負っていた重荷が、はるかに大きなスティグマを押しつけられ、しかもはるかに大きなアイデンティティ損壊力をもつ病気の出現によっていささか軽減された」と述べる。
著者がエイズに関する神話の形成において特に注目するのは、それが「恥ずかしさ」と「罪の意識」を植え付けること、そしてそれが、ある特定の社会集団や地域と結びつけて語られることだ。
エイズが性行為を通じて感染すること。そしてそれが男性の同性愛者のコミュニティにおいて発見され、特に流行したこと。これらの要素が、病気そのものに対する恐怖と結びつき、エイズにまつわる神話を苛烈なものとする。
セックスによるこの病気の伝染は、たいていの人が自業自得とみなしていて、他のルートによる場合よりも厳しい言われ方をする──とくにエイズが過剰なセックスの病気というにとどまらず、倒錯ゆえの病気と理解されているからである(断るまでもないだろうが、私は合衆国のことを念頭においている。この国では目下、異性間のセックスによる伝染はまれで、まずありえないと言われている──まるでアフリカなど存在しないかのように)。セックスが主要な伝達経路となる伝染病は、どうしても性的に活発な人々をよけいに危険にさらすことになるし、またその活動の罰とみられやすい。このことは梅毒にもあてはまったが、ただ単にでたらめな性ではなくて、自然に背くとされる特定の性の「あり方」がより危険と言われるエイズでは、よけいにそうである。ある種の性のあり方によってこの病気になるのはわがままで、だからよけいに非難に値する、と。
(「エイズとその隠喩」第3節より)
多数の犠牲をともなう新たな流行病が、そうした災厄は遠い過去の話と何十年来信じきっていたところに出現したとしても、その流行病を道徳絡みの「疫病」にまで復活、浮上させる力はないだろう。そのためには、その疫病のもっとも普通の伝達ルートがセックスであることが必要になってくる。
(同第6節より)
病を道徳的な罰だと見なす視線に対するソンタグの批判は、この文章ではより鋭く思える。
そして著者は、古来より疫病が「必ずどこか別の場所から来る(第5節)」と考えられていたことに注意を促す。エイズもまた、それが発見された同性愛者のコミュニティ、そしてその起源であるアフリカをそのような「別の場所」、社会にとっての外部と見なし、外部からの脅威、侵略として語られることとなる。
「非難屋のプロともなれば、セックス経由で伝わる致死の病気が提供してくれる修辞攻勢の機会には抗しきれないだろう(第6節)」と皮肉たっぷりに語りつつ、ソンタグはエイズの神話がどのように政治利用されているかを詳しく記す。それは保守的な道徳観の維持や、そして共産主義との戦いにおおいに利用されてしまう(執筆当時は冷戦のただ中である)。
権威主義的な政治のイデオロギーは、不安を煽ることで、異国人による乗っ取りが近いという意識を煽ることで得をする──とすれば、ほんものの病気は有益な材料なのだ。流行病は普通の場合、外国人の、移民の流入を禁止せよという声を引き出す。これまでも外国人嫌悪のプロパガンダでは、移民は必ず病気の(十九世紀の末にはコレラ、黄熱病、腸チフス、結核などの)運び屋とされてきた。(中略)さらに南アフリカの現政権にとっては、エイズが天の贈り物となる。その外相が、最近、周辺の黒人諸国から輸入した鉱山労働者の間にこの病気が広まっていることをあげて、「テロリストどもがマルクス主義よりも恐ろしい武器をかかえてやってくる。それがエイズだ」と高言しているくらいだから。
流行病としてのエイズは、第一世界の政治的パラノイアを投射するための理想のものとして機能するのである。いわゆるエイズ・ウイルスは第三世界からの典型的な侵入者であるにはとどまらない。さまざまの神話的な脅威をもあらわしうるのだ。(中略)当然ながら、流行病としてのエイズから道徳的な教訓を引き出すことに一番入れあげている公の声(たとえばノーマン・ポドーレツ)というのは、アメリカが戦闘意欲を、軍備支出を、確固たる反共姿勢を維持する意志があるのかどうか心配するのを主要な問題関心とし、アメリカの政治的、帝国主義的な権威の失墜の証拠をいたるところに見いだしてしまう人々のそれである。
(いずれも第6節より)
ソンタグがエイズの流行をきっかけとしてここに書いたことは、残念ながら、現在の私たちにとってもあまりにも馴染み深い。
私たち自身がしばしば恐怖と不安によってとらわれてしまう神話、そしてその隠喩的な使用について振り返るために、今なお読まれるべき文章だと思う。
次の一冊
ソンタグの著書を過去にも紹介しています。こちらは2003年に発表された晩年の書。2001年の米国同時多発テロや90年代のボスニア・ヘルツェゴビナ紛争を経て、戦争や死のイメージとの向き合い方について考えたもの。
こちらも過去に紹介した、ソンタグ入門。一筋縄ではいかないソンタグの批評の方法を読み解く。
エイズ流行時の社会情勢や、それに対する社会運動については本書に詳しい。





