私はどうも昔話が好きなようだ。かなり懐古趣味だという自覚もある。
普段、気がつけば自分が子どもの頃の話をしている。自分の活動10周年の時は10周年記念講演と称して活動の軌跡を振り返ったし、去年はネオチネレコード終了11周年記念と称してコンピレーションを出した。
音楽の趣味も懐古的で、今は00年代のアジアのダンスミュージックとか90年代のヒップホップ・エレクトロに興味がある。これが5~6年以上前とかだと、90年代のガバに興味があった。自分が作る楽曲も、どこか古めかしいテクスチャが見え隠れしているのかもしれない、それもそのはずだ、90~00年代に出たサンプリングCDやシンセサイザー(をシミュレートしたプラグイン)を使っているのだから。
グラフィックスもそうだ、今は90~00年代のまだPhongシェーディング全盛期でPBRなど無い頃の3DCGに興味がある。5~6年前だとVHSの質感に興味があったし、自分が高校生の時は8mmフィルムの質感に興味があった。8mmの機材は高校生に手が出るものではないので、フリーのシミュレートプラグインで満足していたのだが。
ただ古ければよいわけでもなく、自分のストライクゾーンはきまって15~20年前だ。今や昭和レトロにはあまり興味がない。でもこのストライクゾーンは自身の年齢と同時にスライドするものだ。自分が子どもの頃(2000年代初頭)の20年前というのは1980年とかになってくるので、昭和に興味があることになっていて、事実昭和レトロに興味があった。岐阜の日本昭和村に連れてってもらった時は嬉しかった覚えがある。
古すぎるとまるで興味がなくなる。日本史の授業は明治以降の歴史にしか興味がなかった。西洋化が進められる明治以前、江戸や戦国時代というのは自分には想像の範疇を超えるというか、ファンタジーすぎる。自分はファンタジーの世界観にかなり興味がない。マリオは興味を持てるけどゼルダには興味を持てない。脱線した。
〜〜〜
懐古とか、ノスタルジアなどというのは、あまり喜ばれないものだと自分の肌感では認識している。
成長が止まってしまう、オトナ帝国になる、良かったとこしか見れてない、シンプルうぜえ、というのが自分の頭で考えられる喜ばれない理由だ。本当のことだと思うから何かを懐古するたびに頭に留めていることなのだが、しかし全ての懐古がそうかというと、私はそうは思えない。
懐古趣味にも4つのパターンがあると思っている。それは以下の通りだ。
- 自分がかつて経験した物事に対する懐古
- 経験したけど物心がついてなくてよくわかってなかった物事に対する懐古
- 自分が生きた時代のものではあるが知らなかった物事に対する懐古
- 自分が生まれていない時代の物事に対する懐古
この分類の意図として、知識ベースではなく主に体験ベースで、対象の物事にどれほどかつて関わりがあったか、という度合いで分けようとしている。
このうち自分の子どもの頃の昔話というのは、子どもだから物心はついてないといえばついてないのだが、詳しく語れるという意味で1と言えるだろう。(だからもう少しいい分類の仕方があるかもしれない)自分の10周年記念公演とかは1そのものだ。
平成生まれの自分がかつて昭和レトロに興味があり楽しんでたというのは、完全に4だろう。これは懐古する当事者の体感としては、懐古というよりは新しいものを享受するのとほぼ等価ではないだろうか?この体感としての新しさは、4から1に行くにつれて薄まっていくと考える。
ここ数年はY2KブームがZ世代を中心に起きているとかなんとか言われているが、これは自分の直感では、というかギリZ世代に入らない94年生まれの自分ですらせいぜい2~3の形での懐古だと思う。これがFurtiger Aeroとか初期ニコ動とかぐらいの感じになってくると、もう自分は1に差し掛かってくる。
ガバは原型が91年頃にできて、私が特に好きな美味しい時期のガバというのは94年〜99年ごろ。私は94年生まれなので、概ね4〜3、わずかに2があるかぐらいだろう。今の興味である00年代のダンスミュージックとかは、3または2で留まっているが、このままスライドして10年代のダンスミュージック懐古とかになると完全に1になる。
1の懐古と、2〜4の懐古は、懐古は懐古でもまったく別物だと思う。暴論気味になってしまうが、2〜4なんかはオルタナティブな、あるいは全く新しい解釈が発生しやすい、温故知新となりやすい懐古だと思う。論語を読んだことがあるわけじゃないので、1は温故知新にならないと自信を持っては言えないのだが、それでも2〜4からの温故知新とは明らかに質が違うと思う。
こういう温故知新の懐古は必要だと思っている。一般論だが、何もリファレンスのないままに新しいものを考えてみようとしたところで、凡百の人間が思いつく事にしかならない、大量生産大量消費の現代においては轍を踏みまくることでしか新しいものというのはなかなかできないだろう。新しい事がいい事なのかという議論は今回はしない。2〜4でも、温故知新の態度がないのは私はちょっと厳しいものがある、消費するだけなら別に何でもいいんだが、創作の話とかになってくると少なくとも自分は惹かれない。「あえてゾンビ的に再生産する」というのは既に90年代頃にやられているようだし、それをあえてもう一度やっても特に良くはない気がする。
さらに2~3の懐古は、4とは違って自分の原体験とか、自分の世代という属性のことを知る事にも直接繋がってくるから、自分らしさみたいなものについても一緒に追求しやすそうに思う。いやどうだろう、わからない、3はむしろ4に近くないかとか思うところはある、雰囲気で書いている。あとでよく考えておく。
さて、じゃあ1の懐古は新しさに繋がらないからダメかというと、それもそうではなくて、語り継がないと消えていく歴史はある。消えてしまった歴史を温故知新することはできない。一次資料を作れるのは、当時を経験した人だけだ。
良くない懐古というのは、一つは、日常生活で既にした昔話をひたすらしつこく繰り返すこと。私はこの気があるので恐ろしい。戦争の記憶伝承とか、そういうケースではなんぼでもしたほうがいいと思うが。日常生活で、どうでもいい思い出について何度も語られると単に鬱陶しいだろう。
もう一つは、昔は良かった、今はダメだ、と善し悪しの判断に繋げること。「昔」の良くないものは、淘汰されて見えなくなっているだけ。「今」はそれが良いものなのか判断が定まりにくい時期だし、良いものはある。
そういったことを避けるようにだけすれば、懐古というのは堂々とガンガンしたほうがいいのかもなと、少し思うようになった。
ここまで書いたが、こういうことは既にいろんな人がいろんなフォーマットで同様のことを論じていると思う。ちょっと検索しただけで似たようなことを言ってる人をいくらか見つけた。温故知新が足りてなかった。しかし、誰もが語るような事でも自分の経験に照らし合わせて自分の言葉で書いておくのは、今の自分の考えの限界を知るという点で必要なんだと思った。どんなオチ?