2021年11月に発行した『私たちの中学お受験フェミニズム』。
2000年代後半に私立中学受験をした当事者が、過去の「お受験」を振り返り、フェミニズム的な視線を向けなおした記録です。編集メンバーは全員が同級生で、近畿圏・女子・受験用語でいうところの最難関校への進学が私たちの出会いでもあり、その後の人生のコミュニティや進路の礎にもなっています。 医学科入試不正問題や都立高入試男女別定員制など、最近話題になった事例にも触れながら、私たちのための中学お受験フェミニズムについて探っていく本です。
大体の内容としては、関西の中学受験制度には構造的なジェンダー不平等が内在していて、受験制度(男子と女子の選択肢、受験日程、定員…)や親の期待、土地の産業構造など複雑な要素が絡み合っていることを質的・量的双方の角度から検討しています。
2021年当時、「中学受験にフェミニズムを持ち込む」発想がこの世にまだ存在せず、しかも近畿の話ってマジで誰が読むの?と言いながら作った本でした。
でも何より「私たち」自身が「私たち」自身のために行う調査や検討を、社会に問いかけることで「私たち」みんなのものになればいいなと思って名付けた記憶があります。
発行から4年経ち(!)、地方在住の女子の受験における進路選択の困難などが社会的にも表面化したり、「フェミニズム」という言葉が持つ色合いも変わったり、たった4年ではありますが、隔世の感もでてきたり…!
ただ今でもイベントや通販で手に取ってくださる方は多く、むしろ最近になって「イマドキですね」「中受ネタ流行ってますね」と言われることも増えました。笑(ありがたいことです)
そんなわけで、より一層広く読んでもらえると良いかなと思い、『私たちの中学お受験フェミニズム』所収の論考「母親たちの人生 私たちの人生」を全文WEB公開します。
1964年生まれの「母」のライフコースを追うことで、自分たち94年生まれの中学受験女子が背負った教育期待を解き明かす論考です。
ちなみに『お受験フェミニズム』本には、付録として母と娘のライフコースを追う年表も添付しています。その他、中学受験経験を振り返る座談会や独自アンケートを含む調査など内容盛りだくさんですので、ぜひ書籍の方もよろしくお願いします(通販もやってます!)。
母親たちの人生 私たちの人生
昭和39年生まれ、私たちの母
「あなたたちの時代はきっと女の子も活躍できるから……。」「はやくいい人を見つけて幸せになりなさい。」親とライフプランを語るにあたって、世代の差が大きな溝を生んでいることに気付いたのはごく早かったように思います。高度経済成長期に生まれた親と、バブル崩壊後に生まれた私たち。「うちの親は考えが古くて…」などと愚痴ることはあっても、なぜこんなにも齟齬を感じるのか、掘り下げたことはありませんでした。
私たちの親は、どのような景色を見て育ち、どのように私たちの子育てに直面したのか。まずは彼女/彼らの見てきたものを知ることで、彼女/彼らがどのように「娘」の人生を思い描いたかを探りたいと思います。そこで、私たちの親――特に母親に相当する仮想の女性モデルを設定して、そのライフコースを追ってみることにしました。編集メンバーの母親のプロフィールや、本書冒頭のアンケートの結果をもとに中間的な人物像を設定すると、「1964 年生まれ」で「近畿圏に育ち」「四年制大学を卒業(本書編集時のアンケートにおいて、近畿圏中学受験経験者に母親の最終学歴を訊ねたところ、回答者の半数を超える51.6%が(四年制)大学と回答し、3.2%が大学院と回答した。短期大学卒業と答えた者は21.0%であった(本書11頁参照)。)」し、「結婚して」「その後阪神間に居住し」「1994 年に女児を出産し」「娘に中学受験をさせた」ということになるでしょうか。さて、彼女はどのような人物なのでしょう。
小学生から高校生――高度経済成長期から安定成長期
彼女が生まれた 1964 年。東京オリンピックが開催された年です。1950 年代から続く高度経済成長期のただ中で、60年代の初めにピークを迎えた賃金格差が縮小に転じた時期でした。
60年代後半は「いざなぎ景気」と呼ばれる長期好況にあり、経済成長率は高水準を保っていました。都市への人口流入が進み、
「3C」に代表される消費生活が定着し、国民の「中流」意識が拡大します。彼女らが物心つく頃には現代的なライフスタイルが整いつつあったと言えるでしょう。その親(私たちにとっての祖父母)世代の家族像は、高度経済成長期を支えたサラリーマン・専業主婦モデルが標準的であったと考えられます。
6歳を迎える 1970 年に大阪で開催された万国博覧会は、近畿圏に育った彼女らにとって、印象的な幼少期の思い出として記憶に残っているでしょう。
彼女が9歳(小学3年生)になった 1973 年には第一次石油危機が訪れました。しかし、日本は世界的不況をいち早く抜け出します。以降、経済成長率はやや下降し、彼女が20代後半を迎える頃まで日本経済は安定成長のまま推移します。
一般に、「学歴」が大衆の関心事になったのも70年代以降であるとされています。1970 年時点での大学進学率は 17.7%でしたが、1975 年には 27.2%に跳ね上がり、短期大学を含めると38.4%に達しました。そして、男女ともに、 1970 年代までには〈学歴と所属階級・階層の関係が確立した〉、つまり高卒者は労働者階級、大卒者は新中間階級に所属する傾向が固まったと指摘されています(橋本、2020)。さらに、より序列の高い大学を卒業することで、より規模の大きい企業に就職できる仕組みが公然と用いられ、単純な学歴のみでなく、「学校歴」と階級の対応も明確になっていました。折しも東京都では、1967 年の都立高校の「学校群」制度の導入をきっかけに私立中高一貫校志向が強まり、大学進学実績でも躍進しました(※日比谷高校を頂点として序列化されていた東京の都立高校の学校間格差解消のために導入された制度。全都立高校を「学校群」に振り分け、受験生は各学校群に願書を提出し、統一入試の順位によって自動的に進学先が決まる。受験生自身が進学先を決められないため不満が募った。)。この流れは京阪神にも波及したため、彼女が大都市圏で生まれている場合、私たちと同じように中学受験を経験した可能性もあります。なお、当時の近畿圏中学受験における男女の志望校の選択肢の差は 2000 年代以上に大きいものでした(※2006年当時に共学最難関校であった洛南高校附属中学校(当時男子校)の開校は1985年。清風南海中学の開校は1983年、共学化は1999年。)。
大学進学と就職――バブル景気と均等法施行
1983 年、彼女は四年制大学に入学し、19才を迎えます。1985年のプラザ合意以降、急激な円高が進み、1991 年頃に崩壊するまで「バブル景気」が続きます。彼女が京阪神の大学に通っていたならば、バブルに沸く都市圏の好況を味わったかもしれません。
1983 年の四年制大学への進学率は 24.4%、女性に限ってみれば 12.2%(男性は 36.1%)、短期大学への進学率は 10.7%(女性は 19.9%、男性は 1.8%)です。少し遡って、彼女らが高校に入学した 1980 年の高校進学率は 94.2%、女性に限れば 95.4%(男性は 93.1%)でした(文部科学省 学校基本調査)。これらの数字を見ると、1964 年生まれの女性の学歴は高卒・短大卒・四大卒に大きく階層化されており、四年制大学を卒業した彼女は、上位1割程度に入る「高学歴」な女性であると言えるでしょう。短大卒であっても、上位3割程度の「高学歴」女性にあたります。
先ほど述べた受験の大衆化の状況を併せて考えると、彼女自身も受験競争をくぐりぬけてこの学歴を得たのだと考えられます。彼女が大学を卒業したのは 1987 年。当時の大卒女性就職率は右肩上がりで、同年の大卒女性就職率は 73.6%(男性は 78.3%)でした(文部科学省 学校基本調査)から、大学を卒業してすぐに結婚したり、その準備のために実家の「家事手伝い」を始めたりするような人は少数派だったのではないでしょうか。
大学在学中の 1985 年には男女雇用機会均等法が制定、翌 1986年に施行され、同法において定年・退職・解雇について女性の差別的取扱いが禁止されたため、制度上「寿退社」を強制することは違法になりました。また、それまで日本企業では男女が別コースで採用され、人事上も別に取り扱われることが一般的でしたが、均等法施行を受けて、その取扱いが「総合職/一般職」と看板を変えました。雇用制度の上に「総合職女性」が誕生したのです。花形的に登用されたのはごく一部の女性でしたが、四年制大学を卒業した彼女らの中には、“女性総合職第一号”となった人も当然いたでしょう。さしあたり、彼女らの目には、生涯を通じてキャリアを積む道が――現実味のない陽炎のようなものだったとしても――一応映っていたと想像できそうです。なお、このコース別雇用管理は大企業を中心に導入が進み、2012 年の調査においては、従業員 5,000 人以上の規模の企業の 46.8%が導入していました(厚生労働省 2014a 付表65)。
しかし一方で、この 1985 年には、公的年金の第3号被保険者制度(給与所得者の配偶者で年収 130 万円未満の人であれば、保険料を支払わなくても基礎年金を受給できる制度)が誕生し、サラリーマンの夫と専業主婦という夫婦モデルは社会保障の裏付けを得て、より強固なものとなりました。
岩井(20008)による 1960 年代生まれの四年制大学卒女性の従業先移動について SMS 調査を用いた分析を見ると、彼女らの就職先での就業形態がうかがえます。この調査において、調査対象者の大卒女性の従業先での就業形態は、正規雇用が6割程度を占めています。後にも触れる通り、新卒で非正規雇用となった者も相当数いたようです。一方で、卒後すぐ、企業等に所属しない自営業者となった人はごく少数でした。以上をまとめると、大学卒業後、彼女には専業家事労働者となるほかに、非正規雇用/一般職正規雇用/総合職正規雇用と大きく3つの道があっただろうと考えられます。
結婚・出産、バブル崩壊、震災、ゆとり教育
さて、彼女が働き始めて3年目の 1989 年、1月8日をもって元号は平成となります。この年の女性の平均初婚年齢は 25.8 歳(男性 28.5 歳)でした(厚生労働省 人口動態統計)。彼女はこのころから30歳を迎える 1994 年までに、いずれかのタイミングで結婚し、阪神間に居住することとなります。上記のとおり、制度としての「寿退社」は法律上禁止されていたため、彼女はいずれの雇用形態において仕事をしていたとしても、結婚を機に仕事を辞めるか、一定の不利益を甘受して続けるかという「自主的な」選択を迫られました。なお、女性の産前産後休業は法律上使用者に義務付けられていたものの、1992 年に育児休業法が施行されるまで、育児休業は労働者の権利とされておらず、企業でも導入が進んでいませんでした(※1975年より、一部職種の公務員にのみ育休法が存在した。)。1992 年時点で彼女は28歳ですから、育休制度の整備が彼女の最初の出産には間に合わなかった可能性が十分にあります。大卒女性のうち誰が結婚・出産後も仕事を続け、誰が辞めたのかは重要な疑問ですが、これについては後ほど検討したいと思います。
そんな中、1994 年、30歳の時に女児を出産します。翌95年1月には阪神淡路大震災により被災し、彼女自身も、その周囲も、生活基盤が大きく揺らぎます。同震災は阪神間の広範囲で震度6を記録し、死者・行方不明者 6437 人、負傷者4万 3792 人、全半壊住戸数約25万戸、30万人以上が家を失う被害を受けたとされています(消防庁 2006)。震災関連倒産は兵庫県を中心に3年間で 394 件にのぼりました(帝国データバンク 2011)。その影響もあり、同年に地元地銀の兵庫銀行が戦後初めて銀行として経営破綻します。その後バブル崩壊の影響は加速し、97年から98年にかけて金融機関の経営破綻が続きます。当該銀行をメインバンクとしていた企業が倒産に至った例もありました。
企業内では、早期退職・雇用調整のための出向・転籍による雇用の流動化が進み、いわゆる終身雇用制度の空洞化が始まったのです。正規雇用は減少し、非正規労働者は男性を含めて増加しました。
このように彼女らの人生を見ると、生まれてから大学卒業までの生育過程では経済が安定的に成長し、男も女も大学にさえ入れば就職にはそれほど困らないとされていたと考えられます。ただし、それは男女を別コースで採用し、女性は「寿退社」する枠組みが前提となっていました。大学を卒業すると、均等法によってこの枠組みが形式上廃止され、男性同様のキャリアを積む道が開かれましたが、女性にとって総合職就職のハードルは高く、またいずれの雇用形態で就職したとしても結婚・出産後に女性が働き続けるための制度が整備されていない中、仕事を辞めるか続けるかの「自主的な」選択を迫られました。子育てが始まる前後にはバブル崩壊や阪神淡路大震災の影響が直撃し、周囲には四年制大学を卒業して大企業に就職した「勝ち組」から転落した者も少なくなかったと想像できます。
戦後、出生率は 1973 年をピークに減少に転じ、1994 年にはすでに 1.5 となっていました。子育てを始めた彼女が直面したもう一つの大きな潮目、それは少子化の加速とゆとり教育の始まりです。私たちが小学校に入学する前々年の 1999 年に、2002 年から実施される「ゆとり教育」の指導要領の概要が発表されました。
〈「生きる力」の育成と「ゆとり」の確保〉をお題目に、その大枠は教育内容の三割削減・学校完全週五日制からなっており、義務教育の授業時間数が大幅に削減され、「詰め込み教育」と呼ばれた 1970 年代のカリキュラムとは全く対照的なものとなりました。結果として、「教科書の薄さ」「円周率を3と教える」といったトピックがメディアを通じて大々的に批判され、公教育に対する不信が高まります。折しも就職氷河期が到来し、また社会における格差が問題化する中で、バブル崩壊により一時下火となっていた私立中学受験ブームに再び火が付いたのでした。
誰が仕事を続けたか
娘の中学受験が終わった 2007 年。彼女は43歳を迎えます。そしてこの当時、大卒以上の女性のうち、「正規の」職員・従業員の職業分類としては、「専門的・技術的職業従事者」が最も多く41.8%を占めていたところ、そのうち40才以上の者に絞ると、半数を超える 58.3%が「専門的·技術的職業従事者」でした。産業分類の観点では、40歳以上の大卒以上女性には「教育・学習支援事業」に従事する者が圧倒的に多く、その割合は 41.1%を占め、次いで多い産業は「医療・福祉」(15.5%)でした。(厚生労働省雇用均等・児童家庭局編 2009)。
ではかつて「総合職」として企業に就職した――入社当時のキャリア継続志向が特に強かったと考えられる女性は、その後どのようなキャリアを歩んだのでしょうか。女性総合職第一世代である 1980 年代後半の就職者に関する統計が見当たらなかったため、均等法施行から10年後、コース別採用が定着した 1995 年4月に総合職を男女とも新規採用した企業40社を対象とする調査を参照したいと思います。1995 年4月の就職から20年後、2014年4月時点で、総合職として採用された女性の処遇は、「一般職員」が 8.4%、「係長相当職」が 3.1%、「課長相当職」が 2.1%、「その他」が 0.5%、「離職」が 85.8%にも上っていたところ、男性では、「一般職員」が 8.2%、「係長相当職」が 18.9%、「課長相当職」が 24.8%、「その他」が 11.5%、「離職」は 36.6%と、男女で役職者の割合と離職率に大きな差が出ています。また、各企業内で同年採用の総合職男女の最高役職位を比較すると、「男性が1段階上位」である企業が 22.5%、「男女で同位職」が 17.5%、「男性が2段階以上上位」が 10.0%、そして「女性のみ離職」が 40.0%という結果となり、20年間同じ企業に在職し続けた男女の昇進具合の差も大きく見られました(厚労省、2015b)。これより10年遡って最初の総合職として入社した女性たちは、ロールモデルの存在しない中でさらに困難な道のりを歩んだと考えられるでしょう。
一度は「総合職」という男性と同等の賃金や社会的地位を得られるキャリアを夢見る機会が与えられた彼女らの人生でしたが、その狭き門をくぐって就職できたとしても、出産・育児を経て、子育てを終える時点まで同じ会社に残り、また同期の男性と同等程度まで昇進できた女性はごくごく一握りでした。上記のデータを単純に比較することはできませんが、結果的に彼女が、教員や医師・看護師など、典型的な有資格専門職こそが「1964 年生まれの大卒女性が(子育てをしながら)一生稼ぎ続けることのできた職種」だった、という実感を持ったとしても不思議ではないのではないでしょうか。
変化する女性のライフプラン
私たちの親が生まれ、子どもを育てるに至った数十年間は、日本の女性のライフプランが激変した時代とも重なります。このことが、1994 年に「娘」を持った親を困惑させたことは想像に難くありません。
ここからは視点を変えて、女性の人生設計という観点から、1964 年頃に生まれた親たちの生きてきた時代の動きを見ていきましょう。彼女らが生まれてから子育てに至るまでの間、ジェンダーに関する社会意識には、顕著な変化がありました。NHK放送文化研究所の「日本人の意識」調査によると、女性は「結婚したら、家庭を守ることに専念した方がよい」とする「家庭専念」型の支持者は 1973 年時点で35%を占めていたところ、私たちの誕生した前年である 1993 年時点で18%に激減しました。
一方で、「結婚して子どもが生まれても、できるだけ職業を持ち続けたほうがよい」と考える「両立」型の支持者は、1973 年時点の20%から、1993 年には37%に増加しました。家族観についても、1973 年時点では、「父親は仕事に力を注ぎ、母親は任されて家庭をしっかり守る」「性役割分担」型の家族を志向する割合の方が、「父親は何かと家庭のことにも気を遣い、母親も温かい家庭作りに専念している」「家庭内協力」型の家族を志向する割合よりも多かったところ、前者の割合が年々減少するとともに後者の割合が増加し、83年時点で同割合、93年時点では大きく逆転していることがわかります(NHK 放送文化研究所編、 2020)。
つまり、「男は仕事・女は家庭」というジェンダー観は、私たちの親の誕生時点から、私たちの誕生時点までの間に「古い」考え方だとみなされるようになっていたのです。その変化はなぜ生じたのでしょう。実際に女性の置かれた社会状況は、その変化を反映したのでしょうか。親たちが娘たちを育てるにあたって、その行く先にはどんな展望が見えており、そして現に娘たちはどのような道を歩んだかを考えます。
雇用における男女平等を求めて
このような価値観の変動と表裏にある、女性運動や女性政策の歴史を紐解いてみましょう。まず、彼女らが育ったのはいわゆる「第二波フェミニズム」の時代と重なります。この時代、まず英語圏で中絶や生殖に関する問題、賃金の不平等など労働における差別、家庭内暴力など、これまで個人的な問題として公に議論されなかった不平等が議論の俎上に載せられました。
日本でも、1966 年には、女性に「結婚退職」を強制する就業規則を違法無効とする(東京地判昭和41年12月20日 住友セメント事件)判決が登場し、その後10年ほどの間に類似の判決が続きました。70年代になると、新左翼運動内部の女性差別に反発する形でウーマン・リブ運動が登場し、各地で相次いでリブ集会が開催され、運動の様子は広く報道もされました。その後、女性の権利問題は立法課題として、議会制民主主義の枠内に持ち込まれます。特に 1975 年の国際婦人年を分水嶺に、雇用における女性差別が政治的トピックとして表面化してゆきます。
例えば当時日本の企業では、就業規則上、男性に比して女性の定年年齢が低く設定されていました(※男性55歳・女性30歳といった若年定年制を敷く場合と、男性60歳・女性55歳といった一回りの差異を設ける差別定年制が存在した。)。しかし戦後、雇用における男女平等を定めた法は、労働基準法上の賃金差別禁止規定(労基法4条)しか置かれていなかったため、賃金以外の場面における性差別的な雇用制度が「法律に違反している」とは言えませんでした。そこで女性労働者たちは、平等権(憲法14条)や公序良俗(民法90条)を主な武器として、法廷闘争を続けました。
まず、1969年には若年定年制(東京地判昭和44年7月1日)、1975年には10歳差の差別定年制を無効とする判決が確定します(静岡地沼津支判昭和48年12月11日・伊豆シャボテン公園事件)。また、男女別賃金表の違法を認めた判決も生まれました(秋田地判昭和50年4月10日・秋田相互銀行事件)。このような時勢の中、雇用における男女の「平等法」を求める運動が高まりました。
均等法の落とし穴
この流れを受けて、1985年、雇用における女性差別を射程に置いた法律として、男女雇用機会均等法が制定されます。同法は、裁判例において既に確立されていたとおり、定年・退職・解雇における女性差別を禁止しました(※福利厚生・教育訓練については、女性差別を一部禁止。)。また同法の施行をきっかけに、男女別の採用・人事を廃止して、これを責任の重さやそれに伴う待遇、配転の有無(特に転勤の可否)を基準に「総合職」「一般職」と再区分する企業が現れます(※ただし後述のとおり、1985年時点では採用における男女の均等取扱いは努力義務とされたにすぎず、男女別の採用が違法とされたわけではない。)。先ほども紹介した「コース別雇用管理」の誕生です。
そもそも、1985年制定当時の均等法は、募集・採用、配置・昇進の場面での女性差別は違法なものだとはせず、男女に〈均等な機会を与える〉〈均等な取扱いをする〉努力義務を課すに留まっていました(※旧均等法7条、8条。)。女性が働く中で受け続けている労務管理上の差別的な取り扱いが禁止されなかった点で、雇用の平等法と呼ぶにはあまりにもお粗末なものでした。
また二度の改正を経て、上記の穴が埋められた現在の均等法は、一般に「男女平等」を定めた法として理解されていますが、そこには大きな落とし穴があります。この法が男性中心的な雇用のあり方の解体を志向していないことを根拠づけるキーワードが「機会の均等」でしょう。当時行政の示した均等法の解釈指針(労働省1986)を見てみましょう。
まず、「妊娠・出産した女性を昇格させない」としても、「女子であることを理由として」の処遇上の不利益取扱いにはあたらず、均等法には違反しないとされていました(労働省1986通達Ⅱ1⑸)(※妊娠・出産・産前産後休業を理由とする解雇のみが違法とされていた(労働省1986通達Ⅱ6⑴)。)。女性にしか生じない「妊娠」を理由とする取扱いの差は男女の比較に当たらない、というのがその理屈です。また、「一般職に女性従業員しかいない場合、結婚後は昇格させない」としても違法ではないとされていました。比較対象となる「一般職男性」がいないからです。これらの定めは、雇用制度内に取り込まれた構造的な女性差別を積極的に温存するものでした。これらが近代的平等法理のバグであり、まったくの詭弁にすぎないことは明らかですが、同じ雇用区分の男女の定年が揃えられ、また総合職と一般職を「自由意思により」選択可能である――男女の「機会が均等」に与えられたという建前に一旦は覆い隠されました(※なお、当時の指針や通達は、各区分の募集・採用において女子を〈排除しない〉限り――男女別定員制を敷いたとしても――機会均等が果たされているとの見方を示していた(労働省1986指針2⑴イ・通達Ⅱ7⑶)。)。
確かにコース別雇用管理は、女性に対しても、基幹業務と補助業務を選択する「機会を均等に」与える制度です。しかし、家族責任を負う既婚女性には転居を伴う転勤が難しく、大部分の女性は不利な条件であっても一般職にとどまるか、総合職で入社した女性も結婚・出産とともに退職するか、一般職や非正規労働者となることがほとんどでした。また、機会均等と言っても、現在まで女性総合職の採用倍率は男性よりも高い状況が続いています(※コース別雇用管理制度導入企業118社を対象とする2014年度の調査によれば、総合職応募者に占める採用者割合(括弧内は採用倍率)は、女性2.3%(44倍)、男性3.3%(30倍)であった。なお、一般職は女性4.4%(23倍)、男性8.8%(11倍)であった(厚生労働省2015b)。)。
1985年から15年が経過した2014年度時点で、コース別雇用管理を導入していた全国118社に対する調査では、総合職に在籍する女性は全体の9.1%しかおらず、総合職に女性が一人もいない企業も15社(12.9%)あったようです(厚生労働省2015b)。
このように均等法とコース別雇用は、一見性別にかかわらない形式をとりつつ、企業内を支配する性別分業を強化し、〈「男女差別を是正した」どころか、「男女差別を正当化し、固定化した」法である〉と批判されています(菊池2019)。均等法の裏側で、第3号被保険者制度が創設されていたことは先述のとおりですが、同年には労働者派遣法も制定され、これまで禁止されていた人材派遣業が解禁されています。労働者の階層化が進みつつ、ともあれ女性にも一度は「男性なみ」の就職をする機会が保障されることとなりました。
非正規化される女性労働
「機会均等」の建て付けが制度化される中で、現実の女性の労働のあり方はどのようだったのでしょうか。1975年以降、日本の経済は為替レートの変動と石油危機の衝撃を「経営合理化」によって乗り切ります。その結果、石油危機後に雇用は一時低迷し、80年代にかけて全体の求人倍率は次第に回復しますが、その内訳を見ると、正規雇用の求人倍率は元に戻らず、パート採用が増加しています。企業が非正規雇用によって労働力を調達したからです。
均等法が制定された1985年から1990年の間に、正規雇用者は145万人、非正規雇用者は226万人増加しましたが、その大部分は女性でした。つまり、1980年代以降は「女性労働の非正規化」――男性は終身雇用、女性は非正規雇用というジェンダーによる身分階層化が発明された時代でもあるのです。
女性のパートタイム就労については、〈既婚女性の第一の役割は主婦役割だと前提したうえで、家庭責任に抵触しない範囲で家計補助として働く労働者として、女性を位置づけるものである。だから賃金も低くてよく、会社側が不要なら解雇もしやすい。1970年代後半以降の時代は、表面的には脱主婦化が進んだように見えるが、実際に進行したのがあくまで主婦役割を第一に置いた「兼業主婦化」であり、「新性別分業」(男は仕事・女は家庭と仕事)であった〉と指摘されています(落合2008)。
先ほども触れたとおり、均等法が「均等な取扱い」を求めているのは同じ雇用区分にある男女の従業員同士だけですから、男性多数の正規雇用と女性多数の非正規雇用の格差がこの法の射程に入ることはありません。女性にも総合職の門戸は開かれたのだから、より良い処遇を得たければそちらを目指せば良いわけなのです。こうして、この新しい性別分業形態は法に則った雇用管理として、日本企業のジェンダー秩序をより巧妙に形作りました。
フェミニストはこわい…
上記のような課題を積み上げながらも、均等法以降、バブルに沸く80年代後期には大卒女性の就業機会が増え、1990年には大卒女性就職率が男性に追いつきます※(文部科学省「学校基本調査」)。その中で〈とくに若い女性たちは、豊かさと自由を享受しつつ、フェミニズムに関心を喪失していった〉と指摘されています。それだけでなく、フェミニストが「怖い存在」と見なされ、異質な存在として孤立する潮流も見られました(大嶽2017)。
20代前半にバブルを謳歌した私たちの母親世代は、まさにここで言及される「若い女性」にあたります。これは筆者の個人的な経験ですが、女性運動の恩恵を受けて育ち、「女の子も男の子も平等」と口にしながらも、政治的活動家としての「フェミニスト」とは一線を引き、恋愛・結婚・子育てを「女の特権的な」楽しみとして引き受けようとする、むしろ極めて保守的な態度が、まさに母の像だったと思うのです。
参画して 活躍して
私たちの生まれた1994年、これまで行政機関において女性差別問題は「婦人問題」と称されていたところ、新たに「ジェンダー・イクォリティー」の語が「男女共同参画」と訳されるようになりました。この言葉が生まれた背景には、女性が庇護の対象として見られるのではなく意思決定に参加することを強調する意図のほかに、「男女平等」という直訳を忌避する保守勢力の反発があります(上野・大沢2001)。以降、この「男女共同参画」というタームがジェンダー政策の旗印となり、2000年代にはこれらの政策に対してフェミニズム・バックラッシュ運動も生じました。
1997年、男女雇用機会均等法が初めて改正されます。1985年の制定以降「努力義務」に留められていた、募集・採用、配置・昇進における女性差別が禁止され、もともと存在していた賃金差別の禁止(労基法4条)とあわせて、雇用の各ステージにおける女性差別を禁止する制度がようやく整備されました。しかし、均等法が禁止する女性差別とは、同一の雇用管理区分における男性との異なる取り扱いであるという基本的な考え方は踏襲されています(厚労省1998)。
1999年には、男女共同参画社会基本法が制定・施行されます。これは強制力を持つ法ではなく、〈国・地方公共団体のあらゆる施策を先導する法原則として「男女共同参画」を掲げた〉ものであるとされています(浅倉2004)。この法律において男女共同参画社会とは、「男女が、社会の対等な構成員として、自らの意思によって社会のあらゆる分野における活動に参画する機会が確保され、もって男女が均等に政治的、経済的、社会的及び文化的利益を享受することができ、かつ、共に責任を担うべき社会」と定義されています(男女共同参画社会基本法第2条)。
この法律に対する評価は分かれていますが、菊地(2019)は、〈平等の実現というよりも「男女のパートナーシップ」を推奨する基本法の発想は、(中略)それ以前の「男性が稼ぎ、女性が家事」という性役割分担に代えて、「男女ともに稼ぎ、女性は家事も」という性役割分業を正当化して〉おり、「そこでは女性が賃労働に従事し、男性も家事を行うことが推奨されるが、均等法で確立されている賃労働のジェンダー秩序は変えられないため、男女が平等に賃労働を担うことはないし、したがって家事の主要な担い手も女性のままである〉と分析したうえで、〈「二人稼ぎ手モデル」という新自由主義に特有の規範を社会の望ましいあり方として打ち出している〉と指摘します。
その後政府は女性関連政策を次々と実施し、2013年の日本再興戦略では、2020年までに25~44歳の女性の就業率を73%に引き上げること(※2012年は68%。)、企業等で指導的地位に占める女性の割合を30%程度にすることが目標に掲げられました(日本経済再生本部2013)。これを受けて2015年に制定されたのが女性活躍推進法です。その内容には立ち入りませんが、同法の言う〈女性の職業生活における活躍〉の期待は、当時21歳であった私たちにこそ向けられているのでしょう。
均等法後の母たち、男女共同参画社会の娘たち
以上を踏まえて、親たちが娘たちにどんな展望を見たのか、そして娘たちが歩んできた道のりはどのように位置付けられるのかという問いに戻りましょう。私たちの親が小学生の頃に起こったウーマン・リブの波は大衆化せず、彼女らは女性の集団的なアイデンティティに根付いた運動を体験した世代とは言えません。
大学進学後はバブル経済の最中で、就職自体はそれほど困難ではなく、女性に総合職としての就職機会が設けられたタイミングでもありましたから、「女性が差別を受けている」と言える社会経済的な根拠が覆い隠され、公正な競争が始まったかのような幻想を抱いてきたかもしれません。しかし、どの雇用形態で就職した女性も、結婚や出産により仕事を続けるか辞めるかの「自主的な」選択を迫られ、総合職として就職した場合でさえ、その離職率が高かったことは述べたとおりです。
そして、均等法の生んだコース別雇用管理が定着し、女性労働の非正規化も進み、バブル崩壊によって社会全体の格差がさらに拡大した後、1994年に生まれた私たちは、「男女共同参画」社会の娘たちとして、あらかじめ「生涯働くこと」「将来の働き方は競争により階層化されること」が予感されていました。そこで、娘により高いレベルの教育を受けさせたいと考える親にとっては、娘がその他の進路を自発的に選択するまでは、とりあえず同世代の男子と同じように、大手企業の総合職としての就職が選択肢の一つに入る程度のステータスを持てるように育てることが、暗黙の教育目標となったでしょう。
そのような親から受験競争におけるコーチングを請け負う塾や進学校では、一定以上の高偏差値中高や大学に進学することが当然視されました。
このように受験家庭に生まれた子は、男であれ女であれ「男なみ」の競争に取り込まれますが、すでに中学受験の時点で女子生徒には男子生徒よりも「狭き門」が設けられ(男女別定員制)、より厳しい進路の振り分け(少数の最難関第一志望校/ぐっとレベルの下がる第二志望)がなされていたことは、本書第1章(「近畿圏女子の狭き門」本書20頁〜)で触れたとおりです。これは、一握りの「総合職」となれるか否かの分岐と相似しているように思えます。この選抜の形は、私たちの人生の最初期から今に至るまで、あらゆる場面に潜在しているのではないでしょうか。
その一方、企業内で稼ぎ続けられた同世代の女性は一握りであったという親たちの経験から、娘には何か専門的な資格等を取っておくべきであるという、女性ジェンダーに片面的な忠告が並行して行われることもありました。さらに、母親たちが子どもに中学受験をさせられるほどに経済的な余裕のある家庭を形成することができた背景には、彼女らの結婚の「成功」があったことも無視できません。
もちろん、母親が主な稼ぎ手である家庭もありますが、多くの家庭においては、バブル崩壊をくぐり抜けた稼ぎの良い夫なしには生活が成り立たなかったでしょうし(そのような夫が存在しない場合には、その不存在が際立ったでしょう)、娘に対する結婚への圧力が生まれる土壌もありました。
このように、娘たち――私たちはフェミニズムから疎外されたまま、お受験街道のでこぼこ道をひた走ることになったのです。
引用文献
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厚生労働省 2015a 『平成26年版 働く女性の実情』。
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消防庁 2006 「阪神・淡路大震災について(確定報)」平成18年5月19日付。
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厚生労働省 2015b 『平成26年度 コース別雇用管理制度の実施・指導状況(確報版)』平成27年10月20日付。
厚生労働省雇用均等・児童家庭局編 2009 『女性労働の分析2008』21世紀職業財団、40–43(統計資料は総務省統計局「就業構造基本調査〈平成19年〉」による)。
NHK放送文化研究所 2020 『現代日本人の意識構造[第9版]』日本放送出版協会。
労働省 1986 「男女雇用機会均等法に関する事業主が講ずるよう努めるべき措置についての指針」、労働省通達「男女雇用機会均等法の施行について」(婦発第68号・職発第112号・能発第54号)。
菊地夏野 2019 『日本のポストフェミニズム――「女子力」とネオリベラリズム』大月書店、39・54。
落合恵美子 2008 「近代家族は終焉したか」NHK放送文化研究所編『現代社会とメディア・家族・世代』新曜社。
大嶽英雄 2017 『フェミニストたちの政治史――参政権、リブ、平等法』東京大学出版会、212–213。
上野千鶴子・大沢真理 2001 「男女共同参画社会のめざすもの――策定までのウラオモテ」上野千鶴子編著『上野千鶴子対談集「ラディカルに語れば…」』平凡社、17。
厚生労働省 1998 「雇用の分野における男女の均等な機会及び待遇の確保等に関する法律の施行について」平成10年6月11日付 女発168号。
浅倉むつ子 2004 『労働法とジェンダー』勁草書房、59。
日本経済再生本部 2013 『日本再興戦略 ―JAPAN is BACK―』。
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