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嘉陵紀行「吹上観音道くさ」を辿る(その2)

 江戸の侍・村尾嘉陵(1760‐1841)が文化十三年閏八月二十日(1816.10.11)に埼玉県和光市にある吹上観音に参拝した道筋を辿った話の続き。御茶ノ水駅から歩きだし、豊島区池袋本町までやってきたところから。

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 旧池袋村の鎮守、氷川神社(池袋本町三丁目)を過ぎると、道(池袋本町中央通り)は緩やかな下りになる。その先には谷端川が流れていた。

「ここから少し行って左右に田圃が見渡せる所に、道を横切って用水が流れている。この用水は、上は椎名町に発している玉川の支流で、末は滝の川石神井川下流隅田川へ注ぐ)に注いでいるという」(現代語訳:阿部孝嗣、注釈:朝倉治彦

 当時は田んぼの中を流れていた谷端川も今は暗渠化されている。この川は豊島区要町の淡島神社の湧水池を水源としていたが、嘉陵が「玉川の支流」と書いているのは、多摩川の水を引き入れた玉川上水の分流である千川上水からの水が流入していたという意味である。自然河川としての谷端川は板橋、大塚を通って、下流は小石川と呼ばれ、今の水道橋付近で神田川に注いでいたが、水の一部は石神井川にも通じていたのだろうか。

(西前橋で谷端川跡を越える。昔は川沿いは水田だったのだろう)

 谷端川跡を過ぎると、豊島区から板橋区に入る。昔の金井窪村で、今は大山金井町となっている。

 ゆるやかに上っていくと、東武東上線の踏切がある。ここに東上鉄道により線路が敷かれたのは大正三(1914)年のこと。東上鉄道は東京と上野(こうずけ、上州=群馬県)を結ぶ鉄道という意味だが、当初の構想では高崎、さらに新潟県の長岡まで線路を敷く壮大な構想だったという。まだ上越線が存在しない時代のことだ。その後、東上鉄道は東武鉄道と合併して東武鉄道東上線となり、結局、上州にも届かずに池袋と埼玉県の寄居を結んでいる。その東上線のいま渡ろうとしている踏切の西側にかつて金井窪駅があった。昭和六(1931)年に開業したが、昭和二十年四月の空襲であたりが焼け野原となり、そのまま廃止されている。今も用地が広いのは駅の名残だろうか。いずれにしても、嘉陵にとっては想像もできない未来の話だ。

(この場所にかつて金井窪駅があった。向こうのガードは山手通りと首都高)

「さらに行くと道の西側に鎮守の森がある」

 踏切の先にあるのが子易神社。創建年代は不詳ながら、旧金井窪村の鎮守だった。祭神は木花開耶姫命で、富士浅間神社の分霊を勧請したと伝わる。小高い場所にある神社の下には街道に面して元禄八(1695)年に造立された「身代わり地蔵尊」が祀られている。この地蔵尊には次のような伝説がある。江戸時代、王子村の長者がこの場所を通りかかった時、夜盗に襲われ、槍で一突きされた。気を失った長者が意識を取り戻すと、不思議なことに自分の体には傷ひとつない。その代わり、傍らにあったお地蔵様の胸に槍の傷痕が残されていた・・・という話である。あくまでも伝説だが、このあたりが夜盗が出るほど寂しい土地だったということなのだろう。

 子易神社の境内には観音堂があり、子安観音が奉安されている。元は子易神社の別当寺だった福生寺(真言宗)にあったもので、明和二(1765)年に造られた八寸(24㎝)の木像だという。子育ての守護仏として広く信仰を集めたが、明治になって福生寺が廃寺となり、観音像だけが神社に遷されている。神仏習合の名残といえよう。

 

「ここで道は、東西に分かれる。東に行くと下板橋の方に出るという。西に行くと小名大矢口(野方領上板橋の小名、板橋区大谷口周辺)を過ぎて上板橋に至る」

 子易神社の前で左折する。直進の道が下板橋(中山道の板橋宿)方面で、左(西)に折れると川越街道の宿場だった上板橋方面である。

 坂を上っていくと、山手通りと首都高にぶつかり、歩道橋で越えて、さらに行くと賑やかな商店街(遊座大山商店街)に合流する。この商店街が本来の川越街道で、起点は中山道の板橋宿平尾である。

 この合流点にはかつて道標を兼ねた庚申塔があった。享保五(1720)年に建立されたもので、「右ハ小石川おふ内道」「左ハ中仙道しむら道」と彫られていた。川越、上板橋方面から来た人のための道しるべで、「小石川おふ内道」がこれまで辿ってきた道である。「おふ内」は御府内で、江戸のことである。この庚申塔は現在は上板橋宿に近い板橋区仲町の専称院の境内に保存されている。

 まもなく東上線大山駅に出て、踏切を渡ると、アーケードのハッピーロード大山商店街となる。

 活気のある商店街を行く。ここも嘉陵が歩いた頃は静かな農村地帯だった。商店街の途中で斜めに横切っていたのが千川上水。元禄九(1696)年に完成した玉川上水の分水路で、ここに架かる橋が大山橋だった。現在は暗渠化され、道路になっている。

千川上水跡の道)

 ハッピーロードのアーケードを抜けると、旧川越街道と池袋から来る現川越街道(国道254号線)が合流する。

 この合流点から右に入ると、すぐに「大山福地蔵」がある。おふく地蔵ともいう。文化年間(1804‐18)におふくという女行者がこのあたりに住み着き、民衆の苦難を癒したので、村人から大層慕われて、おふくが亡くなった後、地元の人々が地蔵尊を建立して、おふくの霊を祀ったのだという。嘉陵がここを通ったのが文化十三年だから、その時もおふくさんが付近にいたかもしれない。

 さて、通行量の多い川越街道を200メートルほど行くと、「日大病院入口」交差点があり、このあたりが昔の大谷口で、上板橋村の小名であった。その先で再び旧道が右に分かれる。ここからが上板橋宿である。

「道の両側には人家がたくさんあり、みな農家であるが商売も兼ねている。道の南側に東高野山長命寺練馬区高野台三丁目)に行く道があり、左右には田圃が続き、石神井川が南から北に流れている。長さ二間(約3.7m)ほどの石橋があり、「ベトウ橋」と聞くが、言葉になまりがあって、正しくは聞き取れなかった」

上板橋宿。現在の町名は地元の小学校の名を取って弥生町になっている)

 旧街道の雰囲気はなんとなく残っているが、宿場時代の遺物は特に見当たらない。もともと川越街道を利用するのは川越藩のみで、江戸から近いため、ここには本陣なども置かれず、宿泊地というよりは馬や人足による物資輸送の中継地という位置づけだったようで、上板橋宿と呼ばれたのも幕末から明治にかけての短い期間だったらしい。

 宿場は江戸方から下・中・上の三宿に分かれ、中宿にある豊敬稲荷神社境内に板橋区教育委員会が立てた上板橋宿に関する説明板によれば、文政六(1823)年の記録として上板橋宿は長さが「六丁四拾間」(約730m)、道幅が三間(約5.5m)であったという。

 昭和初期の復元図によれば、街道沿いには人家が並んでいたものの、その背後には田畑が広がり、それは嘉陵の時代も同じだっただろう。

 豊敬稲荷は他の場所にあって荒廃していたのを地元の篤志家が遷座、再興したもので、江戸時代にはこの場所にはなかったようだ。豊敬稲荷という名称も明治以降のものである。

(豊敬稲荷神社)

 嘉陵のいう東高野山道がどの道を指すのか、正確には分からないが、上宿の石神井川の手前を左に入る道があり、地元では「薬師道」と呼ばれていたようだ。中野の新井薬師に通じる道という意味だが、途中で西へ折れれば東高野山にも行けただろう。

 道は石神井川に架かる橋を渡る。嘉陵は橋の名を地元の人に尋ねたものの、訛っていてよく聞き取れなかったようで、「べとう橋」と書いている。実際には下頭(げとう)橋である。この区間の旧川越街道には下頭橋通りの通称がついている。

 下頭橋の名の由来にはいくつか説がある。ひとつは川越藩の家臣たちが上板橋宿のはずれにあたるこの場所で頭を下げて、殿様を出迎えたり、見送ったりしたことにちなむという説。

 もうひとつは、次のような話。寛政年間(1789-1801)の頃、地元の人に六蔵と呼ばれた老乞食がいて、ここで一日中土下座をして道行く人から喜捨を受けていた。六蔵が亡くなった時、その亡骸の懐から六蔵が貯えていた大金が出てきた。当時、ここの橋は丸太を二本渡しただけの粗末なもので、人々が難儀していたのを六蔵が遺したお金で立派な石橋に架け替えることができた。そこから村人たちは永年頭を下げ続けた六蔵の遺徳を讃え、橋の名を下頭橋と名づけたというもの。嘉陵が渡ったのもその石橋ということになる。

 今も橋の袂には「六蔵菩薩」を祀る小堂があり、「他力善根供養」碑が立っている。この「他力善根」は石橋が川越街道を利用する沿道の多くの村々の資金協力によって架けられたことを意味するものだともいう。


(六蔵菩薩)


(他力善根供養碑)

 下頭橋で石神井川を渡ると、道は二手に分かれるが、ここは左へ行く。

 道はゆるやかにカーブしながら坂を上がり、まもなく川越街道と環状七号線の交差点に出る。交差点の向かい側には道路より一段高い場所に長命寺真言宗)があり、ここは中世の板橋城があったとされる伝承地のひとつでもある。

 環七を越えて、ここからまた国道254号線を行く。

(本郷から9km、日本橋から12.2km地点。古道探索はこれよりだいぶ遠回りをしている)

 環七から1キロ余り歩くと、また旧道が右に分かれる。

 先ほどの上板橋宿とは離れているが、このあたりが今の板橋区上板橋で、東上線上板橋駅が近い。旧道には上板南口銀座商店街の名前がある。

 この旧道を850メートルほど行くと、練馬区北町に入る。その境界には庚申塔が立っている。

 ここから下練馬宿である。

 

 つづく

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