江戸の侍・村尾嘉陵(1760‐1841)の江戸近郊日帰り旅の道筋を歩くシリーズ。今回は新宿区から中野区にかけて、いわゆる「中野長者」伝説にまつわる地を散策。
嘉陵が出かけたのは文政元年八月二十六日。現代の暦では1818年9月26日。嘉陵は数えの五十九歳。この日は中川正辰という人と一緒に歩いている。今回は近場であるし、歩いた道筋の描写は少なく、散策記と中野長者に関する文献からの抜き書きとの二本立てという構成になっている。つまり、この地域を散策したことをきっかけにいろいろと調べてみたという体裁で、普通に読んだだけでは嘉陵の文章と他の文献からの引用の区別がつきにくく、やや雑然とした印象がある。嘉陵紀行は元々は個人的な記録に過ぎず、公刊を前提にしたものではないから、その辺は本人さえ分かればよかったのだろう。
中野長者伝説とは次のようなものである。まずは基本的なストーリー。
室町時代の応永年間(1394‐1428)に紀州熊野からやってきた鈴木九郎という人が中野郷に住み着いて、荒れ地を開墾し、自宅には氏神の若一王子を熊野から勧請して祀っていた。初めは貧しい暮らしを強いられたが、熱心な信仰のおかげか、九郎は大きな財をなし、村人から「中野長者」と呼ばれるほどになった。九郎は熊野の十二の神すべてを勧請して、社に祀り、それが十二社と呼ばれた今の新宿熊野神社の始まりとなった。
九郎には一人娘の小笹がいたが、小笹は若くして亡くなってしまう。娘を弔うため、九郎は仏門に入り、自ら開墾した土地に寺を建て、小笹の法名「真窓正観禅女」にちなんで、寺の名を正観寺とした。当初は今の西新宿(昔の角筈村)の熊野十二社と同じ場所にあったが、寺は江戸初期の寛永五(1628)年に神田川を挟んだ対岸の中野本郷村の旧鈴木九郎屋敷跡地に移り、寺名も成願寺と改められた。
つまり、中野長者・鈴木九郎は熊野十二社と成願寺を創建した人物ということになっているわけだ。
そして、このストーリーにはさまざまな尾鰭がついている。
九郎が中野長者と呼ばれるほどの富を得たのには次のような話がある。
九郎は土地を開墾しながら、馬を育てて売る商売をしていたが、ある日、下総葛西の馬市まで一頭の痩せ馬を売りに行く。その途中、浅草の観音様に馬が高く売れるように祈願し、売れた代金の中に宋銭の大観通宝が含まれていたら、それはすべて観音様に差し上げると誓う。馬は予想以上の高値で売れたが、確かめてみると、果たしてお金はすべて大観通宝であった。これでは手元に一銭も残らない。九郎は迷った末に誓い通り馬の代金すべてを観音様に奉納して、家に帰ると、自宅が光り輝き、黄金で満ち溢れていた。
また、こんな話もある。
蔵に収まりきれないほどの財宝に恵まれた九郎はその財宝を下僕を使って無人の原野に運んでは埋めた。しかし、その下僕から埋蔵金の在処が漏れるのを防ぐため、仕事が終わるたびに下僕を殺してしまった。村人たちは橋を渡っていく下僕の姿は見ても、帰ってくる姿を見た者はいないということから、その橋を「姿見ずの橋」と呼んだ。それが現在、青梅街道が神田川を渡る淀橋である。のちに徳川家光が鷹狩でこの地を訪れた際、不吉な名前の橋の由来を聞き、山城の淀川に似ていることから「淀橋」と名を改めさせたという。
(神田川に架かる淀橋)

(長谷川雪旦画『江戸名所図会』より「淀橋水車」)
さらに、こんな話もある。
悪事を重ねた報いで、九郎の一人娘、小笹は婚礼の夜に全身に鱗が生じ、蛇に変身してしまい、十二社の池に飛び込んでしまった。九郎は相模国の大雄山最乗寺の僧・舂屋宗能(しょうおくそうのう)禅師が高徳の人であると知り、禅師を招いた。舂屋宗能の祈禱により小笹は元の姿に戻り、天に昇っていった。九郎は過去の悪業を悔い改め、舂屋禅師に帰依し、出家して名を正蓮と改め、自分の土地に正観寺(のちの成願寺)を創建した。
細かい部分ではさらにバリエーションがあるものの、おおよそ以上のような伝説がこの地域に残されている。そして、嘉陵もこれらの伝説を書き留めている。もちろん、すべてを信じていたわけではないだろう。
とにかく、嘉陵はこれらの伝説を踏まえて、ゆかりの地をめぐったようだ。この日の文章はいきなり成願寺のことから書き始めている。
「成願寺(中野区本町二丁目)は禅刹である。門の扁額に多宝山とあり、寺の前を井の頭上水が流れている」(現代語訳:阿部孝嗣、注釈:朝倉治彦)
成願寺の最寄り駅は地下鉄丸の内線と大江戸線の中野坂上であるが、僕は新宿から青梅街道を歩いた。成子坂を下ると、淀橋で神田川を渡り、ここから中野区で、中野坂を上ったところが中野坂上。ここで青梅街道と山手通りが交差する。ここから当時は存在しなかった山手通りを南へ下ると、右側に成願寺の山門(三門)がある。中国風の門で、さほど古いものではない。嘉陵が書くように「多宝山」の扁額は今も掛かっている。門の脇には「中野長者開基多寶山成願禅寺」の標柱が立っている。


山手通りの坂を下りきると、そこに中野長者に由来する長者橋が架かり、神田川を渡る。神田川はここでは東へ流れているが、この先で北へカーブして、青梅街道の淀橋をくぐるのである。この川が嘉陵のいう「井の頭上水」で、水源が井の頭池であり、流れる水は江戸の上水として利用されたので、そう呼ばれた。当時はその井の頭上水=神田川に面して山門があった。今は山手通りに面した東側に門があるわけだが、門をくぐると、右に曲がって、正面に本堂が南向きにある。
「小橋を渡って門から本堂まで三十五、六間(約六十五メートル)。入って左に茅葺き屋根の百観音堂が、右には鐘楼があり、方丈と庫裏が並んでいる。鐘楼の傍らには大きな杉が一株ある」
本堂に向かって右手にあったという鐘楼は今は三門の上にある。左手の百観音堂は今もあるが、建物は新しい。もちろん、茅葺き屋根でもない。この一帯は米軍の空襲で焼け野原になったということで、成願寺にも古い建物は残っていない。ただ、戦時中に境内に総延長40メートルにも及ぶ防空壕が掘られ、本尊や開山像、古文書などはそこに避難していたので、焼失を免れた。防空壕は今も保存され、事前に申し込めば見学できるそうだ。

鐘楼のそばに当時は杉の木がそびえていたようだが、それも今はない。境内の木もすべて焼け跡に植えられたものだそうだ。
本堂。

境内の至るところに長者伝説にちなむ「大観通宝」があしらわれている。


「庫裏の庭を通って後山に登る。山の高さは三丈ほどで、山上に金比羅の社がある。
その裏手、北西の方角に小高い墳があって、その周りに空堀の跡がある。墳にはツツジが二、三株生えている。その下に小さな五輪の笠が二つ、なかば埋もれて見える。言い伝えでは、この墳は性蓮長者という人の墳であり、この山はその長者が住んでいた跡であるという。
山には杉や欅が生え茂り、四方の見晴らしはまったくきかない。金比羅社のわずか南の方角に向陵県(向台、中野区弥生町一丁目)の辺りが見えるだけである」
成願寺は中野の台地から神田川の谷へと続く斜面に立地しているので、北側が高く、あたかも裏山のように見える。墓地の最高所の一角には竹などが生えているほか、ケヤキの大木がある。これも戦後の木だろうか。


山の上にあったという金比羅社はどこにもない。ただし、山手通りの成願寺前バス停に寺が設置した待合所の壁に「金比羅大権現」の画像が掲げられていた。

当時は、金比羅様の祀られた裏山のさらに北西の台地上に空堀に囲まれた塚(古墳か?)があり、そこに性蓮(正蓮)夫妻の墓が半ば埋もれていたらしい。
『江戸名所図会』(長谷川雪旦画)の「成願寺」にも寺の裏山に「中埜長者墓」の文字が見える。また、画面右上には神社が描かれ「こんぴら」の文字が読める。そのほか、鐘楼の傍らの杉の木など、嘉陵が訪れた時の境内の様子がよく分かる。

出家した中野長者こと鈴木九郎夫妻の墓があった場所は今は成願寺の敷地外と思われ、古墳は今は存在しない。その代わり、成願寺境内の墓地入口に鈴木九郎の宝篋印塔があり、「鈴木院金岳正蓮大居士」「永享十年戊午三月廿七日」の文字が刻まれている。

鈴木九郎の没年は永享十二(1440)年説もある。正観寺の創建が永享十年だという。

宝篋印塔は戦災の後、昭和三十六年に再建されたものだというが、傍らに大正十四年に建てられた「史蹟中野開拓鈴木九郎長者塚 東京府」と彫られた標柱がある。当時は古い墓塔がここにあったのだろうか。
ところで、成願寺の開山(初代住職)は秦野香雲寺から招いた川庵宗鼎(せんあんそうてい)和尚で、その開山像の内部に人骨が納められていることが昭和四十七年の解体修理の際に分かった。人類学者、鈴木尚氏の鑑定によると骨は二体分あり、一体は熟年男性、もう一体は十代と思われる小柄な女性のもので、これは鈴木九郎と娘の小笹の遺骨と考えられている。
さて、当時は成願寺の裏山には鬱蒼と木が茂って、見晴らしはよくなかったようだ。わずかに南に向陵県が見えるばかりと書いている。嘉陵にとって見晴らしがよいというのは、彼方に富士山や丹沢、奥多摩などの山々まで見渡せるような風景をいうのだろう。向陵県というのは神田川の南岸の丘のことで、正式な地名ではなく、寺の僧らが中国風に内輪だけでそう呼んでいたのだろうと嘉陵は推測している。当時は神田川沿いに田畑が広がり、その向こうに松や杉の茂る丘が続いていたようだが、今は低地も台地もビルで埋め尽くされ、成願寺の境内だけがいくらかホッとできる空間になっている。
「中野宝泉寺(宝仙寺、真言宗、中野区中央一丁目)の五重の塔はもともとこの寺の塔であったものを、ここの住職からもらい受けていったものであるという。今も塔の中には、性蓮長者夫婦の像を安置してある。その年代は分からないと、中川正辰は言う」
中野宝仙寺の塔は実際には五重塔ではなく三重塔であった。成願寺の北、中野坂上交差点の先にある中野区立中野東中学校(旧中野第十中学校)の校庭付近にあり、そこは宝仙寺の飛び地境内であったという。寛永十三(1636)年に建立され、高さは24メートル。屋根は檜皮葺きで、上野寛永寺や池上本門寺の五重塔と並び、江戸初期の建築物として非常に有名であった。塔のあった場所の周辺は塔山、塔ノ山と呼ばれ、今も町会の名や小学校名などに残っている(現在の町名は中野区中央)。

長谷川雪旦画『江戸名所図会』より「中野塔」。


嘉陵も書いているように、この塔はもとは成願寺の塔であったものを宝仙寺が譲り受けたと言われていて、『江戸名所図会』にもそう書かれているが、実際は別のものである。鈴木九郎が建立したとされる三重塔はすでに失われており、宝仙寺の塔と混同されていたようである。塔の中に安置されていた木像も正蓮長者夫妻のものではなく、宝仙寺に三重塔を寄進した地元の農民、飯塚惣兵衛夫妻の像であると判明している。
(米軍の空襲により焼失した宝仙寺三重塔)
その宝仙寺三重塔も昭和二十年五月の空襲により焼失。現在は中学校北西角に場所を移して礎石や記念碑が残るのみで、旧地から300メートルほど西に離れた宝仙寺境内に新しい三重塔が再建されている。

平成四年に再建された宝仙寺三重塔。

宝仙寺。

中野坂上交差点から青梅街道を西へ400メートルほど行った地にある宝仙寺は正式には明王山聖無動院宝仙寺と号する真言宗豊山派の寺院で、平安時代の寛治年間(1087‐94)に源義家によって創建されたと伝えられる古刹で、大宮八幡宮の別当寺でもあった。創建当時は阿佐ヶ谷にあったが、室町時代により大宮八幡に近い現在地に移転している。
つづく