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嘉陵紀行「綾瀬・千住・花又村鷲明神詣の記」を辿る(その3)

 江戸の侍・村尾嘉陵(1760‐1841)が文化十(1813)年八月二十八日に今の足立区の北端近くにある鷲大明神(大鷲神社、花畑七丁目)に参詣した道筋を辿った話の続き。鷲大明神に着いたところから。神社は綾瀬川沿いに北上してきた道から左へ入った場所にあるが、嘉陵は少し行き過ぎてしまったという。

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「鷲大明神は、南面に建っている。『正一位鷲大明神』と記してある。鳥居が四つあるうちの一の鳥居は、石で造られているが、あとは木である。社は四間半に二間半ほどで、本社、幣殿とも茅葺きである。主の住居は、一の鳥居から田の面を隔てた竹林の内にあり、五丁ほど離れている。

 私が十二、三の頃、今は亡き父とともにここに来たことがある。今年八月二十八日、五十四歳で再び訪れる。昔のことを思い出して感慨深い」(現代語訳:阿部孝嗣)

(『江戸名所図会』、長谷川雪旦画)

 鷲大明神は大変古い歴史を持つ神社であることは確かだが、創建年代は不明である。平安時代源義家の弟、新羅三郎義光が奥州戦役へ向かう途中、この地で戦勝祈願をしたところ、一羽の鷲が飛来したというような伝説があるが、あくまでも伝説であろう。創建当時の祭神もはっきりしないが、明治以降、大鷲(おおとり)神社と改称し、祭神は日本武尊であるとしている。

 嘉陵は参詣から14年後の文政十(1827)年に鷲大明神の名称について、次のような説を追記している。

「鷲大明神は、往古武蔵国に住んでいた土師連(はじのむらじ)の霊を祀ったものであるといわれている。『ハジ』をいつの頃からか『ハシ』と読むようになり、ついには『ワシ』と言うようになった。やがて『ワシ』が鳥の『鷲』となり、神体は衣冠の姿をして鷲に乗っているのを、崇め祀るようになった、とある人は言う。もっと古記に詳しい人の意見を待つことにしよう」

 この鷲(ワシ)は土師(ハジ)から転じたものだという説は『江戸名所図会』や十方庵敬順の『遊歴雑記』にも書かれており、当時、巷間に広まっていた説のようだ。

 土師といえば、浅草寺の開創伝承に登場する土師中知(はじのなかとも、又は真中知、まなかち)がいる。  

 浅草寺の縁起によれば、推古天皇三十六(628)年、漁師の檜前(ひのくま)浜成・竹成の兄弟が宮戸川隅田川)で漁をしていたところ、投網に人の姿をした像が掛かった。兄弟はその像の正体が分からず、持ち帰って、地元の長である土師中知に尋ね、それは聖観世音菩薩像であると教えられた。檜前兄弟は毎日観音像を礼拝するようになり、その後、土師中知は出家して、私宅を寺とし、その観音像を安置したのが浅草寺の起源となったという話である。寺の創建に関わった土師中知と檜前兄弟は三社様として祀られ、現在は浅草寺に隣接する浅草神社の祭神となっている。

 土師氏は古墳の築造や葬送儀礼、埴輪の生産などを担った渡来系と思われる氏族である。武蔵国には朝廷により先進的な技術を持った渡来人が多く送り込まれ、開発にあたっている。土師中知が仏教に関する知識をもっていたのも、日本に仏教が広まる前から仏教を信仰していた渡来系の人だったからだろう。その土師氏の祖霊を祀ったのが鷲大明神ということになるだろうか。土師氏は天穂日命アメノホヒノミコト)の後裔であるとされている。もちろん、神の子孫ということではなく、後から先祖を神に仕立て上げたわけである。

 実は花又村の鷲大明神は浅草寺奥の院であるとの伝承もある。鷲大明神では室町時代の応永年間(1394‐1428)の頃から毎年十一月の酉の日に例祭が開かれ、これは「酉のまち」と呼ばれていた。「まち」とは「まつり」のことだといい、そこでさまざまなものが売られたので、酉の市とも呼ばれるようになった。いつしか祭りの日に近郷の農家では生きた鶏を神社に奉納するようになり、鶏は祭りの翌日に浅草寺の境内に放つのが習わしだったという。

 嘉陵は四家村の平蔵に聞いた話を書き留めている。

「『昔は、鷲の明神の祭礼日、十一月の酉の日には、千住辺りから始まった人出が道を自由に歩けないほどに集まり、田の畦道の間で博打をする者もいるほどで、ちまたに人が溢れているのを覚悟して出かけたものである。しかし、今は祭礼日といっても、人出が多いということはなくなってしまった』と四家村の平蔵が言う。これも政事が隅々にまで行き届いてきたせいであろう」

 祭礼日に賭博が行われていたのは事実で、それがことさら人を集める理由にもなっていたようだが、やがて幕府が賭博の禁令を出している。今では酉の市というと、浅草の酉の市(台東区千束の鷲神社)のほうが有名であるが、これは花又村の酉の市を真似たものだという。辺鄙な花又村よりは江戸に近い浅草に人出が集まるのは当然だったろう。ただ、酉の市の元祖は花又村の鷲大明神であった。

 

 さて、嘉陵は鷲大明神に鳥居が四つあったと書いているが、現在の大鷲神社には三つの鳥居があり、すべて石造りである。

 鬱蒼とした参道を行くと、右手には神苑があり、鯉の泳ぐ池がある。嘉陵は少年時代以来、二度目の参詣だったそうだが、僕も十五年ほど前に東京都内の池めぐりをしていて、この神社を訪れている。

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 参道を進むと、社殿は一段高い場所にあり、十方庵敬順が『遊歴雑記』で「石階を登る事八九段」と書いているが、実際、石段を九段登ると拝殿前に出る。

 この神社の北側を毛長川が西から流れ、北東で北から流れる綾瀬川と合流しており、神社の所在地はいかにも上流からの土砂が堆積しやすい土地である。典型的な自然堤防の微高地に神社が創建されたということだろう。

 本殿は幕末から明治にかけての建築であるが、拝殿は江戸時代からのものらしく、嘉陵や十方庵が拝んだのと同じものだろうか。ただ、当時は茅葺きだったそうだが、今は銅板葺きに改修されている。

 「正一位鷲大明神」の額は今も掛かっているが、当時と同じものなのかどうか。

 ところで、嘉陵が鷲大明神から田んぼを隔てて五丁ほどの竹林の中にあると書く「主の住居」というのは神社を管理する別当寺の正覚院(真言宗)のことである。新羅三郎義光が創建したという伝説があり、釈迦堂には鷲に乗った釈迦如来像が安置されているという。山号は鷲王山である。大鷲神社の南南西六百メートルほどの場所にある。

 

 さて、嘉陵は参拝を済ますと、ほとんど足を休めることなく帰途についたようだ。僕は毛長川沿いを西へ歩き、東武伊勢崎線谷塚駅(埼玉県草加市)から電車で帰った。

 大鷲神社付近の想定浸水深最大2メートルは荒川ではなく、利根川が氾濫した場合となっている。

 毛長川は今は埼玉県川口市から流れてくる川であるが、遠い昔には利根川と荒川が合流した川の河道だったと考えられているらしい。

 画面奥(北)から来る綾瀬川と左(西)から来る毛長川の合流点。間の水門は綾瀬川の水を引いて、その西側を流下する伝右川の排水機場。ここで三本の川が合流している。

 毛長川対岸から見た大鷲神社の森。

 北から流れてくる綾瀬川。現在の水源は桶川市の農業用水だというが、かつては荒川(元荒川)の分流だった。川沿いをずっと辿っていきたくなる。

 嘉陵は帰路は四家、千住は通らずに近道で帰っている。そのルートも歩いたので、次回につづく。

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