江戸の侍・村尾嘉陵(1760‐1841)が今の足立区花畑にある鷲大明神(今の大鷲神社)に参詣した道を辿った話の続き。千住宿を出て、日光街道から下妻道に入り、江戸時代にはなかった荒川を千住新橋で越えたところから。
両岸の堤防の間の幅が500メートルもある人工河川、荒川を渡って、頭上を首都高速中央環状線が走る土手沿いの道を東へ行くと、下妻道の続きがある。近くに海抜0メートルの標示がある。海抜0メートルとは潮の干満により水位が変動する東京湾の平均海面の高さであるから、満潮時には海面より低くなる土地ということである。

なお、この付近で明治三十二(1899)年開通の東武鉄道が下妻道を横切っていて、踏切があったはずだが、荒川放水路の開削により線路が移設され、今は600メートルほど北で立体交差している。いずれにせよ、嘉陵にとっては想像すらできない未来の話である。
下妻道を北へ行くと、まもなく商店街となり、高架化された東武伊勢崎線の五反野駅がある。

五反野という地名は現在は小学校名などに残るのみで、五反野という町名は存在しない。駅の南側は足立区足立、東が西綾瀬、北が弘道と中央本町である。元々、この一帯はたびたび洪水に襲われる人跡稀な低湿地帯だったが、江戸初期から新田開発が始まり、開発者の名前をつけたいくつも新田村が生まれた。そのひとつに弥五郎新田(千葉氏の家臣で、その後、帰農した京極弥五郎が開発したと伝わる)があり、その最初のわずか五反(約50アール)の田圃から五反野(五段野)という小地名が生まれたようだ。嘉陵が歩いた頃は開発が進み、一面の田圃だったのだろう。
五反野駅を過ぎると、やがて六差路があり、交差点名は「四家」である。


六差路のうち、直進の道と斜め右に行く道が古いようだ。つまり、昔は千住方面から来て、ここで二方面に分かれていたわけだ。直進は旧奥州街道といわれ、斜めにいくのが下妻道である。嘉陵は下妻道を行くが、その前に四家村の平蔵という人の家で休憩している。平蔵が嘉陵とどのような関係にあった人物かは分からない。ただ、鷲大明神へ行くのに千住・四家経由というやや遠回りといえるルートを選んでいるのは最初から平蔵宅に立ち寄るつもりだったからなのだろう。
ところで、四家はこの地を開発した四軒の家に由来する。鶴飼、市川、高橋(兄弟)で、いずれも武士の地位を捨てて帰農したという。
(古い地名を現代に伝える四ツ家稲荷神社)
平蔵宅で一休みした嘉陵は未の刻(午後二時)頃、再び歩き出す。縄手の道は下妻道のことで、田圃の中の一本道だったのだろう。今は住宅街の中をまっすぐ北東に向かう2車線道路である。
ところで、四家は交差点名のほか、バス停や神社に名を残すのみで、現在の町名だと青井や弘道になっている。もともと数多くの新田村が複雑に入り組んでいた地域で、昭和四十一年の住居表示で新たな町名を決めるのになかなか話がまとまらなかった。そこで青井は各新田村にあった「精出耕地」の「精」と「耕」の字のつくりをとって青井としたという。精出耕地というのは最後まで残った未開の荒れ地を苦労して開墾した耕地という意味でつけられた地名だという。
一方の弘道は地元の弘道小学校(明治十一年開校)からとった町名で、水戸藩の藩校「弘道館」に倣って『論語』の「子曰人能弘道、非道弘人」から命名したという。付近を水戸街道が通っていることにも関係があるだろうか。
少し行くと二ツ家町というバス停があった。織田家の旧臣だった平田家と若菜家が開発したことにちなむという。ここも現在の町名は青井である。

ここでも荒川が氾濫したら、想定浸水深最大5メートル。


また海抜0メートルの標示がある西加平の交差点で環状七号線を越え、四家から2キロ近く歩いて綾瀬川にぶつかった。ちなみに加平というのは元は嘉兵衛新田で、伊藤嘉兵衛という人が開発した新田村だった。現代の町の名前としては嘉兵衛ではいかにも古臭く、田舎臭くもあるので加平にしたのだろう。

とにかく、ようやく綾瀬川までやってきた。高い堤防に囲まれた綾瀬川は嘉陵が書く通り、極めて人工的な一直線の水路である。そして、左岸側には首都高速三郷線の高架橋がずっと並行している。

かつて日本一汚い川といわれた綾瀬川は今もきれいには見えないが、水質改善の努力はなされているようで、カワウが2羽いて、何度も潜水していたから魚もいるのだろう。
もちろん、このあたりも潮の干満の影響を受ける汽水域で、川の水位は時々刻々と変化する。


川がまったく見えないカミソリ堤防に沿って北上すると前方で川が左へカーブしている。町名が南花畑になった。かつての花畑村で、その昔は花又村であった。周辺の村々が明治二十二年に合併する際に花又を美称化して花畑に改名したのである。
綾瀬川の直線区間がようやく終わるところに架かっている橋が内匠(たくみ)橋。
明治の合併までここは榎戸村だったが、甲州武田氏の旧臣で、武田氏滅亡後にこの土地へ移住した芦川内匠が開墾したことから、このあたりは内匠新田と呼ばれ、橋の名前もそこから来ている。下妻道は内匠橋を渡って東へ向かい、流山を通って下妻方面へ通じていた。
(芦川一族の末裔が今も住んでいるようで、芦川の名が看板や表札に見られる)
このあたりには江戸からの船便の船着き場もあり、賑わっていたようである。
「花又村(足立区花畑)の川端に紺屋が二軒ある。江戸にもないほどの大紺屋で、木綿の浅黄紺染めがたくさん染められてある。これは江戸の町で商っている足袋の材料となる木綿である。また、酒、肴、飯などを売る家が四、五軒ある。そのうちの二軒は、感じのよいこざっぱりとした店構えをしており、調度類も清潔である。紙漉きの家も数軒ある。みな漉き返し紙である。川沿いにある商家も民家もみな、貧しそうな家は一軒もない。これは水運の利便があるからで、この辺りはすべて御代官の支配地である」(現代語訳:阿部孝嗣)
ここで書かれているのは内匠橋周辺のことのようだ。内匠新田には昭和初期でも染物屋が二軒あったという。染物を綾瀬川の清流で晒していたのだろう。綾瀬川は昭和三十年代初頭まではきれいな川だったが、高度経済成長期の急速な都市化に下水道の整備が追いつかず、生活排水の流入により一気に汚染が進んだのだった。
また、この付近は江戸時代から漉き返し紙、つまり再生紙の生産も盛んだった。もともと浅草紙と呼ばれ、浅草付近で生産されていたが、次第に郊外に移り、今の足立区などで生産が盛んになった。漉き返し紙はちり紙や落とし紙(トイレットペーパー)などに利用された。
(川上側から見た内匠橋)
さて、内匠橋の少し下流、左岸には花畑水門がある。これは綾瀬川とその東方を流れる中川を結ぶ1.4キロの花畑運河(花畑川)との接続部に設置された水門で、完成は昭和四十二(1967)年。

花畑運河は中川から都心方面への舟運の短絡水路として昭和六(1931)年に完成した運河で、北関東方面から東京への農産物の輸送、および東京からの下肥(人糞尿)などの輸送のルートとして利用された。前年に完成した荒川放水路(現・荒川)によって中川下流部が分断され、中川から都心部へのスムーズな通航が困難になったことから、新たに運河を開き、中川~花畑運河~綾瀬川~綾瀬水門~荒川放水路~隅田水門~旧綾瀬川~隅田川という新ルートが完成し、旧来の中川ルートより16キロも短縮され、往時は多くの船が行き交った。
言うまでもなく、現在では舟運はすっかり廃れ、運河も事実上、役割を終えて、水質の悪化した綾瀬川の水が花畑運河や中川に流入するのを防ぐため、花畑水門は通常は閉鎖されている。ただ、綾瀬川の浄化のため、引き潮のタイミングで水門を開け、中川から水を流すこともあるようだ。この時は水門の耐震化工事が行われていた。
(花畑運河と花畑水門)
そして、内匠橋の上流側にも二つの水門がある。

実は綾瀬川は江戸時代初期までここから東へ流れていた。嘉陵が内匠橋から南の綾瀬川はあまりにまっすぐで、人工の堀に違いないと推測した通り、寛永年間(1624‐44)にここから一直線に南下する水路が開削され、こちらが綾瀬川となり、東へ流れる旧流路は綾瀬川から切り離されてしまったのである。この旧流路は下流側の中川との合流点も享保十四(1729)年に遮断され、川としての機能を失ってしまう。この水路は現在、東京都足立区と埼玉県八潮市の都県境になっているが、埼玉県側の地名をとって垳(がけ)川と呼ばれていて、その中間地点には北から葛西用水が合流している。綾瀬川とも中川とも断ち切られた垳川はこの用水の水を貯める溜め池としての役目を果たすようになり、葛西用水より上流側は小溜井と呼ばれるようになった。
そして、大雨で小溜井が増水した時に綾瀬川にポンプで排水できるように小溜井排水場が設置されていたが、用途廃止となり、今は中川との合流点に設置された垳川排水機場が垳川、小溜井の水位のコントロールを一手に引き受けている。
昔の綾瀬川本流だった小溜井。綾瀬川とは遮断されていたが、水質改善のために綾瀬川の水に高濃度の酸素を人工的に加えて流し込む試みも行われているらしい。たくさんの小魚が群泳し、鯉や亀もいた。釣り人の姿もあり、現在は親水空間として整備工事が行われていた。

垳川の東京都側は綾瀬川からは中川まで約2キロの遊歩道になっている。

さて、内匠橋を過ぎ、嘉陵の旅はここから古来の綾瀬川沿いとなる。川も道もゆるやかにカーブするようになる。
右に綾瀬川を見ながら川沿いの道路を北へ行く。道路と川の間に旧河道が400メートルほど残っていて、「古綾瀬川遊歩道」になっている。この旧河道が都県境である。

やがて綾瀬川に架かる浮花橋がある。対岸は埼玉県八潮市。橋の名前は花畑と対岸の八潮市浮塚を合わせて浮花である。この橋の地下を南北につくばエクスプレスが走っている。
浮花橋を過ぎると、川沿いに水神を祀る石祠と地蔵菩薩と刻まれた石塔が並んでいる。

あとはひたすら川沿いに行く。内匠橋からは高速道路からも離れるので、空が広く感じられる。

花畑二丁目の路傍に鷲大明神への道標らしき石塔があるが、文字が摩滅して判読が難しい。

昔の鷲大明神、今の大鷲(おおとり)神社までは内匠橋から2キロ余りで着いた。ここまで江戸から四里。約16キロで、江戸時代の人にとっては日帰りにちょうどよい距離だったらしい。

つづく