江戸の侍・村尾正靖(号は嘉陵、1760‐1841)の江戸近郊日帰り旅のルートを辿るシリーズ。今回は足立区花畑にある大鷲神社である。当時は鷲大明神と呼ばれていた。
これが何年の旅だったかは明記されていないが、「正靖十二三の比、先考と共にここに遊ぶ、今年八月廿八日五十四にて再遊す」との一文がある。嘉陵が十二、三歳の頃に今は亡き父と鷲大明神を訪れており、嘉陵が五十四歳になった年の八月二十八日に再遊したという意味である。西暦1760年生まれの嘉陵が数えの五十四になったのは1813年であるから、文化十年のことで、文化十年八月二十八日は今の暦では1813年9月22日である。平凡社東洋文庫の『江戸近郊道しるべ』の目次で旅の日付が文政十(1827)年四月となっているが、これは誤りであろう。確かにこの日の日記の文末に「文政十年丁亥朱夏 正やす重識」とあり、朱夏とは夏の初めのことであるから旧暦の四月と解釈したのだろうが、これは嘉陵が後になって鷲大明神の名前の由来についての考察を追記した日付と思われる。
さて、この日の日記はいつもとは違った構成で、いきなり綾瀬川に関する考察から始まっている。綾瀬川は埼玉県桶川市に水源を持ち、東京の下町を流れて東京湾に注ぐ河川で、昭和から平成にかけて15年連続で水質汚染全国ワースト1という不名誉な記録を持つ川でもあるが、もちろん、江戸時代にはきれいな水が流れていた。鷲大明神(大鷲神社)は綾瀬川が埼玉県から東京都に入ってすぐの川の西側にある。
「思うに、綾瀬(綾瀬川、足立区綾瀬と西綾瀬の間を流れる)は、天然の堀ではない。人力で掘ったものであろう。川の流れは、自然そのもののようには見えない。板屋橋(伊藤谷橋、足立区綾瀬一丁目と西綾瀬一丁目を結ぶ)から上流の方に二つ目のそだ橋(不明)から川下、綾瀬橋(墨田区墨田五丁目から足立区千住曙町へ渡す橋)に至るまでは、おおよそ一里ある。その間の水の流れは縄を張ったようにまっすぐで、少しも曲がった所がない。鷲大明神(大鷲神社、足立区花畑七丁目)から少し上流の方で、多少屈曲している。おそらく、この辺りから下流は人力で造った堀で、これから上流にあった天然の水流を人力で導き通したものであろう。確かではない。川上は岩附(さいたま市岩槻区)へ通じるという」(現代語訳:阿部孝嗣、注釈:朝倉治彦)
確かに綾瀬川の下流部は直線的な水路になっているが、これは近代以降の河川改修によるものではなく、江戸時代からそうだったようである。その歴史については、現地を訪ねつつ、書いていくことにする。なお、嘉陵がいう「そだ橋」が注釈では「不明」となっているが、足立区南花畑三丁目と神明一丁目の間に架かり、埼玉県との都県境にも近い内匠橋のことである。
ところで、この日の嘉陵の歩行ルートは次のようなものである。
「今日の巳の刻(午前十時)に浜町(中央区日本橋浜町)の家を出て、浅草から千住に至り、ここで昼食をとって、四家村(足立区弘道)の平蔵の所で少し足を休める。未の刻(午後二時)頃、平蔵の家を発って、縄手を通って、綾瀬の堤に出る。そこから川の西岸に沿って行くこと一里半で、鷲大明神に詣でる」
帰路は途中から往路とは違う道を通っている。こちらの方が近道だったろう。
「そこからもと来た堤の道を南に向かって、板屋橋の二つ上のそだ橋を渡り、川の東岸を南に行くこと一里半ほどで、梅若(木母寺、墨田区堤通二丁目)の裏手に出る。灯火の点る頃そこを過ぎて、酉の下がり(午後六時過ぎ)に帰り着く」
嘉陵は浜町から隅田川沿いに浅草まで来て、そこから待乳山聖天の西側を北上する吉野通りを通って千住へ向かったと思われる。このルートは古来、江戸から浅草を通って千住、さらに奥州へと向かう街道の道筋であった。僕は地下鉄日比谷線の三ノ輪駅から歩き始め、南千住で嘉陵のルートに合流した。
嘉陵が歩いてきたと思われる吉野通りを南千住駅前から南望。今は交通量の多い通りで、両側にビルが立ち並んでいるが、昔は途中に田園地帯が広がっていた。

このあたりは江戸時代には小塚原刑場がある寂しい土地だったようだが、今はJR常磐線や地下鉄日比谷線の高架、そしてJR貨物の隅田川貨物駅が道を分断している。
(広大な隅田川駅)
日比谷線と常磐線の線路の間にある延命寺(浄土宗)の延命地蔵。

この大きな地蔵尊はここで処刑された人たちの供養のために寛保元(1741)年に造立されたもので、「首切り地蔵」とも呼ばれた。嘉陵が通った時にはすでに存在したが、幕臣・嘉陵はどんな気分で刑場と首切り地蔵の前を通ったのだろうか。
常磐線の線路をくぐると、小塚原回向院があり、ここには安政の大獄で刑死した吉田松陰や橋本左内らの墓や供養碑などがある。小塚原刑場では明治六年に廃止されるまでに約20万人が処刑され、江戸時代には刑死者の腑分け(解剖)も行われた。それを見学した蘭学者の前野良沢や杉田玄白らがオランダ語で書かれた解剖学書『ターヘル・アナトミア』(原書はドイツ語)などを底本とした『解体新書』(1826年刊)を出版することになる。
南千住駅前から500メートルほど北へ行くと、国道4号線・日光街道にぶつかる。向かい側にあるのが素戔雄神社。平安時代の延暦十四(795)年に創建されたと伝わる古社で、現在の祭神は素戔雄大神と飛鳥大神の二神だが、江戸時代まではそれぞれ牛頭天王、飛鳥権現と呼ばれ、そこから飛鳥社小塚原天王宮との名称があり、「お天王さま」として広く崇敬を集めた。風雅を好む江戸の文人たちは「飛鳥さま」「飛鳥の杜」と呼んだという。

松尾芭蕉が深川を船で発って千住に上陸し、ここから「奥の細道」へと歩き始めたことから、境内に矢立初めの一句「行く春や鳥啼き魚の目は泪」の句碑がある。文政三(1820)年に地元の文人たちによって建立されたものだが、和歌をよく詠む嘉陵は芭蕉ら「俳諧の徒」をやや下に見ていた節がある。
嘉陵は文政四(1821)年八月にこの神社を再訪し、句碑を見て、高名な儒学者・亀田鵬斎が銘文を手がけたのを知り、次のように書いている。
「社頭に芭蕉といふものの句を、鵬斎が書たる石ぶみあり、かれは現存の儒にて、いやしくも洙泗の道を唱ふるものなるに、いかに人のさりがたくものすればとて、俳諧の徒のために、筆とりて従事せんは、かたはらいたきわざなんめり」(六地蔵まふでの記)
また、境内には富士塚がある。これはもとからあった小塚に元治元(1864)年に浅間神社を祀ったもので、本来は「瑞光石」という霊石が祀られている。光を放つ霊石に神々が降臨し、それが素戔雄神社の起源となっている。

瑞光石は正式には「神影面瑞光荊石(しんえいめんずいこうけいせき)といい、嘉陵は塚の図とともに千住大橋架橋の際、この瑞光石の根が橋の下まで連なっていたため、橋脚が打ち込めなかったという伝承を書き残している。
(瑞光石)
(荒川区の説明板でも嘉陵の『江戸近郊道しるべ』に触れている)
瑞光石のある小高い塚が「小塚原」の地名の由来ともなっていて、嘉陵は高さ三尺ばかり、幅三間ばかりと記録しているから、現在よりも低かったことが分かる。富士塚を築く際に石を積み上げたのだろう。
さて、神社をあとに日光街道を北上する。このあたりは日光街道の最初の宿場、千住宿のうち南宿であった。すぐに千住大橋で隅田川を渡る。徳川家康が江戸に入って隅田川に最初に架けた橋が千住大橋である。文禄(1594)三年のことで、まだ幕府成立前である。現在の橋は昭和二年完成。

昭和初期に荒川放水路(現・荒川)が開削されるまでは隅田川=荒川下流部のことであったが、この千住大橋から上流は荒川、下流が隅田川と呼ばれていた。現在は荒川と隅田川の分流点に設置された岩淵水門から下流が隅田川である。
ただし、この橋が最初に架けられた時点ではここを流れていたのは荒川ではなく、入間川であったろう。利根川に通じていた荒川の流路を熊谷付近で変更し、入間川に接続したのは寛永六(1629)年のことと言われている。以後、これが荒川の本流となり、入間川はその支流という位置づけになっている。


このあたりは海抜2メートル。

橋を渡って足立区に入り、京成線の千住大橋駅の手前、足立市場前で国道から旧日光街道が分かれる。
旧街道入り口にも松尾芭蕉。

江戸初期に五街道が整備され、千住が日光街道、奥州街道の宿場に正式に指定されたのが寛永二(1625)年ということで、今年(2025年)で四百周年ということになる。

嘉陵はこの宿場のどこかで昼食をとったようだ。何を食べたのだろう。
北千住駅が近づくと、商店街にも活気が出てきた。このあたりが千住宿の中心部だったのだろう。
ただ、荒川が氾濫した時の「想定浸水深・最大5.5m」というこれまでに見た中でも最高の数字があったりもする。昔からこの地域一帯は水との闘いの連続だったのだろう。


北千住の中心街を過ぎて、旧街道も静かな雰囲気に戻る。宿場町の面影を今に伝える古い商家が残っている。
横山家住宅。江戸後期の建築で、昭和十一年に改修されている。松屋の屋号を持ち、今でいう再生紙を扱う地漉紙問屋だったとのこと。

千住宿のはずれで旧水戸佐倉道が東へ分かれる。いまの水戸街道の前身で、中川を渡った新宿(にいじゅく、葛飾区)で、千葉方面に向かう佐倉道を分岐している。

さらに行くと、また追分があり、日光街道は西へ折れ、直進は下妻道となる。古くはこの直進路が奥州道だったともいう。嘉陵はここを直進したようだ。
(右は茨城県の下妻へ通じる下妻道。左へ曲がるのが日光・奥州街道)

下妻道に入ってすぐ右側に名倉医院がある。名倉といえば接骨医の代名詞ともいえるが、その本家本元である。

秩父の畠山氏の末裔である名倉氏は享保年間(1716‐36)に千住に移り、名倉直賢が明和七(1770)年にここで接骨医を開業し、今に続いている。嘉永元(1848)年建築の長屋門や母屋が現存している。門前の広場は患者を運んできた駕籠や大八車のたまり場であったという。また、入院設備はなかったため、遠来の患者や重傷者のための専門の宿屋が周辺に四軒ほどあったそうだ。
名倉医院前を過ぎると、下妻道は荒川の土手で行く手を遮られてしまう。荒川はたびたび氾濫し、東京の下町に大水害をもたらしてきたが、とりわけ被害の大きかった明治四十三年の大洪水をきっかけに都内を蛇行しながら流れていた荒川の水を東京の市街地を避けて直接海に流す大規模な放水路が計画され、約20年に及ぶ造成工事を経て昭和五年に完成した。川幅が500メートルにもなるこの大河川は当然、江戸時代には存在せず、下妻道もまっすぐに北へ伸びていたが、今は上流側へ迂回して、国道4号線の千住新橋で荒川を越える。

江戸時代には存在しなかった人工の水路。この工事で多くの住民や寺社などが移転を余儀なくされた。

つづく
(正面奥が
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