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嘉陵紀行「上めぐろ村に遊ぶ記」を辿る(後編)

 江戸の侍・村尾嘉陵(1760‐1841)が文政三年三月四日(今の暦では1820年4月16日)に上目黒村(現在の目黒区上目黒)方面に散策に出かけた道筋を辿った話の続き。

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 麻布十番からスタートして仙台坂を登り、南部坂を下り、広尾から祥雲寺脇を抜け、渋谷橋を渡って恵比寿駅までやってきた。当時から町並みが続いていたという駒沢通りを行く。当時は渋谷といえば、今の恵比寿駅に近い下渋谷が最も賑わっていて、今の渋谷駅周辺(中渋谷)は宮益坂を過ぎれば、あとはもうまったくの田舎であった。

「左右に町並みの続く所を五、六丁行くと、右は世田谷、左は目黒不動(滝泉寺、目黒区下目黒三丁目)、祐天寺(同区中目黒五丁目)に行く道がある。ここの茶店の角に桜が一本ある。ちょうど雨が降り注いできたので、しばらく立ち止まって、

 さくら咲木の下かげの雨やどりうしとやいはんうれしとやいはん」(現代語訳:阿部孝嗣)

 この世田谷道と目黒道の分岐点は今の「恵比寿南」の交差点。現在はもう一本の道路が横切っていて、五差路になっている。そのまま駒沢通りをいくのが世田谷道で、そこから左に入る細道が目黒道である。

 ここに茶店があったようだ。

「亭の主に、この辺りに桜があるかと問うと、『桜はここらにはありません、上目黒村に、近頃富士を二ヵ所(東富士は中目黒二丁目、西富士は上目黒一丁目)築いたので、せめてそれをごらんください。そこには桜も植えてあると聞いておりますが、まだそれほど大きくはなっていないでしょう。今は山の見晴らしがよいだけかもしれませんが』と答えてくれたので、その男に道を聞いて出かける」

 この分岐点から世田谷方面へ行くと西富士(先に造られたので元富士という)、目黒方面へ行くと東富士(後から造られたので新富士という)に出るのだが、嘉陵はまず世田谷方面に向かっている。

「ここの角から西に曲がって世田谷道と呼ばれている、山畑の縄手を行く。十三、四丁(約1.5キロ)ほど行くと民家が二、三軒ある所に着く。そこから南の方を見ると、富士の築山が二、三丁ほどの間に見渡せる」

 ここから西へ向かう駒沢通りを行く。江戸時代にはこのあたりはもう町をはずれて、「山畑の縄手」であったようだ。道の両側が高くなって、谷戸地形になっている。左右の斜面は畑や雑木林だったのだろう。500メートルほどで「鎗ヶ崎」の交差点がある。台地の先端が鎗の穂先のように突き出ていることに由来する地名である。駒沢通りはここで南へカーブして目黒川の低地へ下っていき、右に分かれる旧山手通りが台地上を北西方向へ伸びている。

鎗ヶ崎交差点角にあった案内地図。画面下から来て、右へ行く。画面右が北)

 旧山手通りを100メートルほど行くと、代官山交番前の交差点。ここで交わる道は旧鎌倉街道だと伝えられている。北へ行くと並木橋渋谷川を渡り、渋谷の金王八幡宮前を通り、青山方面へ通じ、南へ行くと目黒区と世田谷区の境界を通って昔の多摩川の二子の渡しへと通じていた。

 交番の角を左折する。ちょうどこのあたりが渋谷川と目黒川の分水界で、その尾根筋をかつて三田用水が流れていた。玉川上水の分水路で、寛文四(1664)年に開削されている。当初は上水として利用された後、農業用水や水車、近代以降は工業用水としても利用されたが、戦後に役目を終え、昭和四十九年に廃止されて、今は痕跡もほとんど残っていない。三田用水の流路は渋谷区と目黒区の境界でもあるが、この付近では渋谷区側を流れていた。

 分水界を越えると、その先は目黒川の低地へと下る目切坂であるが、坂の手前、左側のケヤキの木の下に地蔵尊がある。

 台石に「南無阿弥陀佛」の文字を挟んで「右大山道」「左祐天寺道」と彫られている。かつてはここから左へ下る急坂があったらしい。右の大山道が旧鎌倉街道で、目切坂である。坂の名前の由来は『目黒町誌』(村上三朗編、大正十三年)によると、石臼の目切職人、伊藤與右衛門という人が明治十年頃まで坂上に居住していたことにちなむという。

 そして、目切坂上がちょうど区境で、目黒区側にかつて富士塚があった。これが目黒元富士である(上目黒1‐8)。嘉陵の文章だと茶店からここまで1.5キロ以上あるように書かれているが、実際は700メートルほどの距離である。

 現在はキングホームズという高級マンションの敷地となっている場所に文化九(1812)年に地元の富士講の人々によって築かれたもので、高さは12メートルもあったという。嘉陵が「山の高さは四丈ほど」と書いているのとも一致する。

「この築山は、文化七年に築かれたという。山の高さは四丈ほど。九折の道をつけて頂上に登る。山の南裾にはまっすぐに伸びた松が一本あるが、この他には何一つ木はない。頂上から眺めると、西南の方角には富士の峯、その左に大山、西北の遠くには秩父、近くには府中、二子、登戸の辺りの山々が、また、西北には武甲山が見渡せる。どの山も真っ白な雪を戴き、その雪が日に照らされて色をうつろわせ、まるで花が咲いているように見える。住民が四、五人で今も土を運び、道をならしている姿があるだけで、その他には人ひとり来ない。仙元の祠は、南に向いて建っており、その東に山の番小屋がある」

 現地の説明板には文化九年に築かれたとあり、嘉陵は七年と書いていて、2年のずれがあるが、着工年と完成年の違いだろうか。嘉陵が訪れたのは文化九年から8年後のことだが、まだ造成作業が続けられていたようだ。

  嘉陵が書く一本松は歌川広重の描いた絵でも確認できる。

歌川広重「名所江戸百景・目黒元不二」)

 そもそも富士信仰は霊峰富士を神の宿る山として崇拝し、登拝することで、その霊力を体得して自己を高め、衆生の救済をめざす宗教である。江戸初期の修験者で富士の洞穴で修行し、百六歳まで生きた長谷川角行(1541‐1646)を開祖とし、その流れをくむ食行身禄(俗名・伊藤伊兵衛、1671‐1733)が富士吉田口登山道を開き、七合五勺目にある烏帽子岩で断食を行って35日目に即身成仏した頃から身禄を崇拝する富士講が盛んになり、実際に富士登山ができない人々のために各地に富士塚が築かれるようになった。最初の富士塚は安永(1780)九年に築造された高田富士(新宿区西早稲田)だといわれる。

 各地に築かれた富士塚の中でも目黒富士は目黒川に臨む高台に位置し、富士山を望む景勝地として知られ、信者のみならず行楽客も多く訪れたが、明治十一年に崩され、山頂にあった浅間神社は上目黒氷川神社の境内に遷されている。

 今は跡地を示す説明板があるだけだが、目切坂上からは今も富士山を遠くに望むことはでき、「関東の富士見100景」にも選定されているが、地点名は「東京富士見坂」となっている。

「山を南に下ると、崖にまた九折の道があるので下る」

 元富士があった高台から目切坂を下る。今でも両側に木々が茂っているが、当時も同じで、昼間でも薄暗かったことから「暗闇坂」の別名もあったという。

 坂の右上は代官山の大地主で、東京府議会議長、渋谷区議会議長を歴任した朝倉虎治郎氏の邸宅(大正八年建築)で、高低差を活かした庭園とあわせて「旧朝倉家住宅」として国の重要文化財に指定され、公開されている。村尾嘉陵からは後世の人物だが、ここは一度訪れてみる価値があり、外国人観光客の姿も多かった。入口は坂上である。

 目切坂は最初西へ下り、右へ曲がって坂下に至る。左側は東京音楽大学のキャンパスである。所在地は上目黒一丁目。上目黒は昔の荏原郡上目黒村である。道の反対側は旧朝倉家。

 坂下から目切坂を振り返る。目切坂の標柱と「目切坂と旧鎌倉街道」の説明板が立っている。

 鎌倉街道はここから宿山橋で目黒川を渡り、南西へ向かったが、江戸時代にはむしろ世田谷道と呼ばれ、西へ行くと三軒茶屋付近に通じていた。世田谷方面の農民たちが目切坂を経て、広尾、麻布方面へ野菜などの農産物を運び、帰りは江戸市内で汲み取った下肥を積んで戻った道である。

田圃の畦の細道を東に行くと、東峯の冨士の麓に着く。ここも九折の道を登った所が、上を平らにした富士の頂上である。山の高さは西峯と同じ。この富士は、去年、この辺りに住む住民が力を合わせて築いたというが、西峯に比べると、まだ整備されていない。ここにも祠がある。ここのも南向きに建っている。眺望も西峯と同じというが、やや劣るように思われる」

 目切坂下で交わる西郷山通りが古くからの道で、嘉陵はこれを左(南東)へ行ったようだ。当時は田んぼの中の畦道だったようだが、今は大学キャンパスや住宅、マンション、店舗が並ぶ台地の裾道である。

 まもなく東急東横線の線路をくぐり、続いて駒沢通りをくぐる。駒沢通りのガードには「新道坂橋」の名前がある。昔ながら急坂を緩和するために開かれた新しい坂である。

 目黒学院高校前を過ぎて、突き当りを左折すると、ここから別所坂である。目切坂は以前から知っていたし、過去にも通ったことがあったが、別所坂というのは初めて知った。しかし、実際に登ってみると、これはなかなかの坂である。タモリ氏も東京で五本の指に入ると評価している。

 緩やかに上りながら別所坂の標柱を過ぎ、だんだん急勾配になって右へカーブ。さらに急坂となって左へ曲がると坂上に庚申堂があり、そこから右に曲がって階段を上がると頂上である。最後が階段なのでクルマの通り抜けは出来ない。ただ、スロープがあり、郵便バイクなどは通っていった。

 別所坂の庚申堂。寛文五(1665)年~明和元(1764)年の庚申塔6基が並んでいる。

 そして、別所坂上に「目黒の”新富士”と新富士遺跡」の説明板がある。

「この辺りは、昔から富士の眺めが素晴らしい景勝地として知られたところ。江戸後期には、えぞ・千島を探検した幕臣近藤重蔵がこの付近の高台にあった自邸内に立派なミニ富士を築造。目切坂上の目黒”元富士”に対し、こちらは”新富士”の名で呼ばれ、大勢の見物人で賑わった」


歌川広重「名所江戸百景・目黒新富士」。手前の流れは三田用水)

 現地の説明板にある通り、新富士近藤重蔵の屋敷内にあった。嘉陵が訪れる前年の文政二(1819)年、富士講の人々が借地を申し出たところ、豪傑肌の重蔵は無償で別邸の土地の一部を貸与し、そこに富士塚が築かれたのだった。

 説明板によれば、この富士塚の地下には洞穴も造られており、洞内に石の祠や大日如来像が納められていた。これは平成三(1991)年に発見され、新富士遺跡と命名され、その後、埋め戻されたという。

 新富士は昭和三十四年に破壊され、山腹にあった石碑類は現在、坂上の別所坂児童遊園に保存されている。左から「南無妙法蓮華経」の題目碑、「小御嶽」碑、右端は正体不明。題目碑は日蓮上人が写経した法華経を埋納した富士山五合目上の経ヶ嶽を擬して富士塚に建てられたものという。

 児童遊園からは眼下の町を見渡すことができるが、林立するビル群に遮られて、富士山はほとんど隠れてしまっている。

「西東両峯は、どちらも麓の田圃を見下ろすように造られている。西北は道玄坂(渋谷区道玄坂一、二丁目の間)の下から、東南は行人坂(目黒区下目黒一丁目、雅叙園前を目黒川に下りる坂)に至る一帯が見える。川を隔てて向こう側に畦の細道が一本あり、こちら側の崖の下にも一筋の道がある。みな西北から東南に延びている道で、祐天寺、目黒不動へはこの道を通って行くという。

 西峯の南に松の木立が見えるが、そこが祐天寺である。その東には長元院(長泉院大玄寺、目黒区中目黒四丁目)の山がある。この長元院は新寺という」

 当時の風景の素晴らしさは広重の絵からも想像できるが、今ではすっかり失われてしまった。

 嘉陵は眼下の田んぼの中を流れる目黒川の両岸に連なる台地の崖線についても言及し、右岸側は山が世田谷方面から目黒不動まで続き、左岸側は道玄坂から行人坂、夕日山、袖ヶ崎、大崎、御殿山と品川の海まで続いているとしている。実際は右岸にも目黒不動から先、海岸部まで崖線は続いている。

 そして、ここからの眺望は王子の飛鳥山志村坂上熊野権現からの眺めと甲乙つけがたいとして、「自然の景色を愛でることを楽しむ人間にとっては、一度は行って見るべき所であろう」と書いている。

 この後、嘉陵は旧鎌倉街道を北上し、渋谷金王八幡宮前を通って、帰宅している。

「渋谷からの帰り道で

道のべのつらつら椿たれみよと下てるばかり花の咲らん

 川の岸に山吹さきたり

たちかへりみれどあかぬかも行水の心にとまる岸の山吹

 行ての道にまれに花あるもこよなし

さはにみるながめはあれどかなたこなた一本ふたきの花もなつかし」

 このような歌はその場で即興的に思い浮かぶものなのだろうか。

 

 嘉陵は後に新富士について追記している。

「東富士作山は、文政二年(1819)、近藤十蔵(通称重蔵、文政十二年没、五十九歳)が、地元民を動員して築いたという。山の傍らに標柱を建て、上に鶴を一隻置いて、『近藤正斎先達白日昇天之所』と書き、陰に『文政二年某月某日』と刻む。これは、元御書物奉行であった十蔵が、大坂の御武具奉行となって出立した日付けである。その時に、見送りの武士は一人もいなかった。ただ、浄衣を着た富士講の人が数住人、品川まで送っただけである」

 文武にすぐれた幕臣近藤重蔵(1771‐1829、号は正斎)はロシアの北からの脅威が現実のものとなりつつある中で北方警備強化の重要性を幕府に提言し、自ら数度にわたって蝦夷地を踏査し、最上徳内らと千島列島にまで足を延ばして、寛政十(1798)年、択捉島に「大日本恵登呂府」の標柱を建て,領有宣言としたことはよく知られている。

 その後、重蔵は文化五(1808)年に幕府の書物奉行となり、幕府が各国と交わした外交文書を編纂するなど、重要な仕事をしているが、文政二(1819)年に大坂の御弓奉行に転じている。これは事実上の左遷であり、重蔵の自信過剰で傲岸な性格が災いしたともいう。嘉陵が武士の見送りがなかったというのはそのためだろう。

 嘉陵は書いていないが、この後、新富士と重蔵の周辺で大事件が起きる。嘉陵が目黒富士を訪ねてから6年後の文政九(1826)年のことである。

 近藤重蔵の別邸内に富士塚が築かれた年に彼は大坂に左遷されるわけだが、この別邸と富士塚の管理をこの土地の元の地主であった塚越半之助に任せた。半之助は重蔵不在の間に富士塚を一般に開放して、大勢の行楽客を呼び込み、そばに蕎麦屋を開いて大儲けしたのだった。重蔵は2年後に大坂での職を解かれて江戸に戻ってくると、半之助との間で裁判沙汰になる。重蔵が勝訴となったが、半之助による嫌がらせが続いたといい、重蔵の長男・富蔵(1805‐87)が文政九年に半之助の一家五人を斬殺するという凄惨な事件に発展したのである。富蔵は八丈島流罪となり、父親の重蔵も近江・大溝藩(滋賀県高島市)に預けられ、そこで3年後に世を去っている。

 富蔵は明治十三(1880)年に赦免されるまで八丈島で53年間の流人生活を送り、この間に八丈島の地誌「八丈実記」(全72巻)を著す一方、寺子屋を開いて島民の教育にあたるなどして、現地の有力者の娘と結婚し、一男二女をもうけている。赦免された富蔵は江戸から変わった東京に戻ったが、その後、再び八丈島に渡り、島で八十三歳の天寿を全うしている。

 

 




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