江戸の侍・村尾嘉陵(1760‐1841)の日帰り旅日記のルートを辿るシリーズ。今回は目黒である。
「文政三年辰陰暦三月四日、この頃、右大将の君(清水徳川家第五代斉彊)の麻疹もようやく回復した。花も咲き始めたという。こっそりと郊外への旅をして、滅入っている心を和ませようと、今日はよく晴れ渡った日になったので、不意にあてもなく家を出る」(現代語訳:阿部孝嗣、注釈:朝倉治彦)
文政三年三月四日は今の暦では1820年4月16日である。「右大将の君」だという清水徳川家第五代、徳川斉彊(なりかつ)について、ちょっと調べてみると、文政三年四月二十八日生まれとなっていて、この日記が書かれた時点ではまだ生まれてもいないことが判明した。つまり、朝倉治彦氏による注釈は誤りである。では、清水家に仕える嘉陵が「右大将の君」と呼ぶ人物は誰なのか。第四代当主の斉明(なりのり、1810‐1827、斉彊の異母兄)のことか。文政三年には斉明は数えの十二歳であったが、八歳の時に先代で異母兄の斉順(なりゆき)が紀州徳川家の養子となったため、兄に代わって清水家の当主にはなっていた。ただし、文政三年六月にようやく元服して、この時、従三位左近衛権中将兼式部卿という官位を叙されている。文政三年三月の時点では斉明はまだ官位を持たず、しかも、右大将というのは右近衛大将の略称なので、斉明が「右大将の君」と呼ばれることはありえない。
当時、徳川幕府で右近衛大将の官位を持ち、「右大将の君」と呼ばれる資格があったのはただ一人、十一代将軍・徳川家斉(子どもが53人もいた。ただし、約半数は夭逝)の次男で、のちに十二代将軍となる徳川家慶である。家慶は寛政五(1793)年生まれなので、当時は二十八歳であったが、若君や姫が次々と世を去るのを見てきた当時六十一歳の幕臣・嘉陵にしてみれば、将軍の世継ぎが麻疹に罹り、またしても心配な日々を送っていたのだろう。
ちなみに清水家の三代目~五代目もすべて徳川家斉の子であり、家慶の異母弟ということになる。斉順は家斉の七男、斉明は十一男、斉彊は二十一男で、いずれも将軍家から清水家に養子に入って当主となっている。
とにかく右大将の君、家慶の健康が回復し、とりあえずホッとした嘉陵はわずかな暇を見つけて、気休めに日帰り旅に出かけたわけである。
嘉陵はこの日の行程を麻布から書き出しているので、僕は麻布十番駅から歩きだす。
「まず麻布までやってきた。人の行く所はことごとく煩わしい気がする。花が咲いているかどうかは分からないが、まだ花見に行ったことのない所に行ってみようと、仙台坂(港区南麻布一丁目と元麻布一丁目の境を東に下る坂)を登り、天真寺(南麻布三丁目)の裏手にある南部殿の屋敷(現有栖川宮記念公園)前を下って、広尾の町に出、祥雲寺(渋谷区広尾五丁目)の前を左に折れて寺に沿って少し行くと、毛利讃岐守殿の屋敷がある。この辺りも広尾の町である」
(「東都麻布之絵図」部分、1851年、図の左が北)
麻布十番から仙台坂を上る。坂の南側に仙台藩伊達家(上の絵図では「松平陸奥守」)の下屋敷があったことにちなむ名称だが、今はそこに韓国大使館があり、周辺には警察官がやたらに多い。いつでも道路を封鎖できるように可動式のバリケードもあちこちに準備されて、物々しい雰囲気だ。写真を撮りながらウロウロしていると不審人物と思われかねないから、足早に通り過ぎるのみ。

坂を上りきると、当時は四辻があったようだが、今は六叉路になっている。そこを過ぎて二股に分かれる道を左へ行くと、左手が天真寺である。
天真寺は寛文元(1661)年に福岡藩の第四代藩主、黒田綱政が京都の大徳寺から仙渓和尚を開山に招いて創建した臨済宗の寺である。

墓地には黒田家などの大名墓所があり、巨大な墓が並んでいる。

嘉陵が歩いたのは桜の季節だが、今は梅が花盛り。

その天真寺前を過ぎると、今度は南部坂を下る。左側はドイツ大使館、右側が有栖川宮記念公園で、江戸時代には盛岡藩南部家の下屋敷があった土地である。明治以降は盛岡町という地名となり、有栖川宮家の御用地となったが、有栖川宮家が断絶したため、土地を継承した高松宮家から昭和九年に東京市に下賜され、公園化された。大きな高低差のある敷地内には東京都中央図書館があり、歴史散歩の途中でのちょっとした調べものには便利。この先のルートを古地図で確認したりして、ついでに食堂で早めの昼食。
南部坂は一部工事中だったので、公園内の道を下る。

下ったところには池があり、渓流や滝もある回遊式庭園となっていて、散策をする人が多いが、外国人の姿も目につくのは、周辺に外国大使館が多いせいだろう。

南部坂を坂下から振り返る。

江戸時代から町家が並んでいた繁華な商店街を西へ行くと、すぐに外苑西通りにぶつかる。交差点の名前は「広尾橋」。今は橋はないが、昔はここを北から南へ笄(こうがい)川が流れており、渋谷川に注いでいた。
ここで港区南麻布から渋谷区広尾に入り、広尾の商店街を西へ行くと、突き当りが祥雲寺である。

門前を左折するつもりだったが、門内に入ってみたら、こちらにも道があったので、門内を左折。急に閑静な寺町の雰囲気になり、左に霊泉院、右に香林院という塔頭がある。

霊泉院には秩父青石(緑泥片岩)で造られた板碑(石塔婆)があった。

明徳五(1394)年五月廿九日に造立されたもので、二条線の下に天蓋、阿弥陀如来を表す種字(キリーク)、その下に蓮台、下部には「光明遍照、十法世界、善法、念仏衆生、摂取不捨」の文字が刻まれている。頂部が欠け、真ん中で折れたのを修復してあるが、渋谷区内では貴重なものだそうだ。
渋谷区随一の大寺院、瑞泉山祥雲寺(臨済宗大徳寺派)は福岡藩黒田家の菩提寺である。元和九(1623)年に二代藩主・黒田忠之が赤坂の福岡藩中屋敷内に初代藩主の父・長政の菩提を弔うために寺を建立したのが始まりで、開山は京都大徳寺の竜岳和尚。当初は長政の法号から興雲寺と号したが、その後、麻布に寺地を拝領して移転し、この時に祥雲寺と改称したという。寛文八(1668)年に大火で類焼して、現在地(当時の豊島郡下渋谷村)に移転した後は江戸から目黒方面へ向かう途中に立地していたため、将軍家の鷹狩の際の休息地にもなった。6,000坪にも及ぶ奥深い境内には黒田長政をはじめとする黒田家など諸大名の墓所があり、周囲の喧騒から隔絶された歴史的な空間となっている。

門の外に建つ巨大な五輪塔。

昌光院殿久岩妙映大姉という戒名と嘉永四(1851)年六月十七日の年月日が読める。福岡十代藩主・黒田斉清の娘である純姫の墓らしい。純姫は島津家から黒田家の婿養子となった十一代藩主・長溥(ながひろ)の正室である。
さて、嘉陵のように祥雲寺の敷地に沿って歩いていくと、明治通りに出る。通りの南側に沿うように渋谷川が流れている。麻布からここまでは道の両側に大名や旗本の屋敷、町家が並んでいたが、このあたりから道の左側は百姓地であったようだ。

(「東都青山絵図」部分、1853年、右上が北)
(明治通りの向こうのビルの裏を渋谷川が流れている。この辺りは昔は田んぼだったと思われる)
嘉陵は「毛利讃岐守殿の屋敷がある」と書いているが、絵図には「毛利安房守」とある。同じ毛利でも当時、讃岐守だったのは長州藩の支藩・長府藩のさらに支藩の清末藩(現在の山口県下関市)の藩主だった一族で、当時の藩主は第六代の毛利元世(1796-1845、堀田氏からの養子)である。それに対して安房守は豊後国佐伯藩(大分県佐伯市)の第十一代藩主・毛利高泰(1815‐69)で、広尾に下屋敷を持っていた。ただ、嘉陵が通った時は先代の第十代毛利高翰(たかなか、1795‐1852)の時代で、安房守ではなく、出雲守、若狭守を歴任している。
嘉陵が前を通り過ぎた屋敷は毛利佐伯家のもので、讃岐守というのは思い違いだと思われる。
絵図を見ると、毛利安房守屋敷前で道は二本に分かれている。百姓地(おそらく田圃)の中を行く道と屋敷沿いに北側を迂回する道で、その先で再び合流して渋谷川を渡っている。前者が今の明治通りであるが、当時は迂回路のほうが太く描かれている。田んぼの中の道より少し高い山裾の道で、渋谷川沿いの低湿地を避けていたのではないだろうか。
広尾1-7と6の間を入るのが迂回路で、7番地が毛利屋敷だったところである。
(道の右側は高台になっており、ここに佐伯藩主毛利家の屋敷があった)
途中、右手に日蓮宗の法雲寺があるが、ここに移転してきたのは明治時代のことのようだ。


道は左へ左へとカーブして、「渋谷橋」交差点で再び明治通りに出合う。歩道橋を渡り、ここから駒沢通りに入る。
「さらに少し行って下渋谷の橋を渡ると、左手に森対馬守の屋敷がある」
駒沢通りに入るとすぐに渋谷川を渡る。橋の名前は渋谷橋。この辺りは昔の下渋谷村で、渋谷の中でも賑わっていた場所である。
(渋谷橋から見た渋谷川)
渋谷川下流の右岸側に森家の下屋敷があった。嘉陵は対馬守と書いているが、嘉永六年の絵図では越中守となっている。同じ一族ではあるが、対馬守は播磨国赤穂藩主の森氏であり、越中守は分家の播磨国三日月藩主の森氏(森忠徳、1818‐81)である。ということは、これも嘉陵の思い違いということになる。
その森家の屋敷跡の一部は現在、タコの滑り台がある恵比寿東公園になっている。

公園内には小さな池があり、コウホネが栽培され、金魚やメダカが泳いでいる。渋谷川の上流、河骨川にかつてコウホネが自生していたと伝えられていることから、昔は清らかな流れだった渋谷川の川辺で育てているものだ。嘉陵が今の渋谷川を見たら、あまりの破壊の凄まじさに愕然とすることだろう。

渋谷橋に戻って駒沢通りを行くと、すぐに山手線の恵比寿駅のガードをくぐる。

しばらくは駒沢通りを行く。当時からこの通りは町並みが続いていたようだ。
つづく