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嘉陵紀行「新曾妙顕寺詣の記」を辿る(その5)

 江戸の侍・村尾嘉陵(1760‐1841)が文政十一(1828)年十月に新曾村(埼玉県戸田市新曽)にある妙顕寺に参詣した日帰り旅日記のルートを辿った話の続き。最終回。

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 目的地の妙顕寺に着き、娘の出産のために頂いていた安産の護符を返納した嘉陵は帰途につく。

「寺門を出て帰り道につこうとすると、八つ(午後二時)の鐘が遥かに響く。この辺りは水郷の地なので、隅田川の東川沿いの光景を彷彿とさせる」

 隅田川の東側には海抜ゼロメートル地帯が広がっていて、今では東京湾の干潮時の水位より低い土地すらあるが、このあたりも縄文時代には海だった土地で、海抜は3メートル前後しかない。荒川もこの付近はまだ潮の干満の影響を受ける汽水域である。市内を歩いていると暗渠水路が縦横に走っていて、かつては水気の多い地帯だったことがよく分かる。

「観音寺戸田市新曽)妙顕寺の東にある。帰りに詣でる。ここも仁王門を茅葺きにして、建物を朱で塗ってある。竜光山と扁額にある。寺領五石を賜るという。真言宗の寺で、本尊の如意輪観音はここの土中から掘り出された黄金の像だという。堂の造りとしては、玄関、庫裏の構えが妙顕寺に似ている。規模としては半分くらいであろうか」

 中央通りに面した門前の電柱に荒川氾濫時の「想定浸水深4.0m」とある観音寺の山門は閉ざされていて、東側の門から入る。

 築地塀の外の植え込みに石仏があり、よく見ると三猿が刻まれているので庚申塔だ。一面六臂の青面金剛が邪鬼の上に右膝を建てて座す半跏像というのは珍しい。享保七(1722)年造立。

 その庚申塔の横の門から入ると駐車場で、殺風景な感じがするが、新しい長屋門をくぐると、きれいに手入れされた庭園に池がある。

 長屋門

 観音寺は真言宗智山派の寺院で、正式には龍寶山愛染院観音寺という。嘉陵は扁額に竜光山とあったと書いているが、記憶違いだろう。正しい山号は龍寶山である。永徳三(1383)年に戸田城主、桃井播磨守が観音菩薩に祈願したおかげで娘の病気が快癒したことから如意輪観音を本尊とする寺を建立したという。また、寛永十七(1640)年に死去した庄(荘)和泉守秀永(法名道覚)という人物が中興開基と伝えてられている。江戸時代には幕府から御朱印地十五石を与えられている(嘉陵は五石と書いているけれど)。

 仁王門は正徳二(1712)年建立で、嘉陵がくぐったものが今もある。ただし、茅葺きだった屋根は銅板葺きに改められている。朱塗りだったというが、すっかり色あせている。

 仁王像は門より古い元禄十一(1698)年造立。

 「龍寶山」の扁額。

 本堂は度重なる改修を経ているが、明治十三年の建築。

「墓地を見て歩いていると、大きな五輪や角に造って重々しく重ねてある古い形の石がたくさんある。この辺りに住んでいる人の墓だという。今の人は墓石をそのような形では造らなくなってしまったが、かつてはどのようなことからあんな形の墓石を造ったのであろうかと、不思議に思う」
 確かに墓地には五輪塔など古い墓が多い。

 墓地内にある瓦屋根の建物は荘家霊廟。中興開基の庄(荘)和泉守秀永の一族の墓だろう。江戸初期の五輪塔が並んでいる。

 その前に立つ石造物は中央がやはり江戸初期の宝篋印塔。その両側は左が石灯籠、右が石幢で、ともに文禄四(1595)年建立。どちらも庄秀永(道覚)が自分の死後の冥福を願って建てたもので、戸田市有形文化財に指定されている。

 嘉陵もこの墓地で同じものを見たのだと思うと、感慨深い。

 墓地の入口に立つ阿弥陀堂。内部には壁面にやはり市指定文化財の千体仏があり、小さな阿弥陀如来像がずらりと並べられている。

「その西北の隅に、青い石で厚さが二、三寸ほどの古い碑が草木の際に建っている。上に梵字を彫り付け、半ばから下に、『建長五年』の四文字が見える。また、そのこちら側にも同じような古碑があり、その石の厚さは三、四寸ほどである。これも上に梵字を彫り、その下に円相の内に梵字を彫ったのが二つ並んでいる。さらにその下に、『文正元』と彫ってある三文字がある。この碑の長さは四尺ほどで、幅は一尺五寸ぐらいである」

 秩父青石(緑泥片岩)の板碑は阿弥陀堂の横に一基があり、下部に建長五年と刻まれているのが読める。1253年である。

 しかし、鎌倉時代の貴重なものにしては無造作に置いてあるし、そんなに古いものにも見えない。実はこれはレプリカで、実物はもうひとつの文正元(1466)年の板碑とともに戸田市有形文化財として、郷土博物館に展示されているのだった。この日は時間がなくて行くことができなかったので、後日、改めて博物館に行って現物を見てきた。そのおかげで戸田の渡船場付近のジオラマや嘉陵が見た妙顕寺道の道標なども見ることができたのだが、昔懐かしい古いものの中にワープロや初期のパソコンまであることに時代を感じた。

 戸田市内最古の建長五年の板碑は蓮華座の上に阿弥陀如来を表す種字(キリーク)が彫られたもの。レプリカと違って右端が欠損している。

市指定文化財(建長の板碑) - 戸田市公式サイト

 文正元年の碑はやはり阿弥陀種字(キリーク)の下に観音菩薩(サ)と勢至菩薩(サク)を並べた阿弥陀三尊形式。嘉陵が「円相の内に」と書くように三尊とも梵字が光背を表す円で囲まれ、蓮華座の上に彫られている。2メートルを超す大型碑だが、嘉陵は四尺ほどと書いているのは下部が埋もれていたからだろう。

市指定文化財(文正の板碑) - 戸田市公式サイト

 

 さて、嘉陵は観音寺をあとに帰路につく。僕は大塚から観音寺、妙顕寺まで歩いて、帰りは埼京線戸田公園駅から電車に乗ったのだが、嘉陵はもちろん帰りも歩き。そして、寄り道までしている。僕はこの日、自宅から自宅で3万6千歩ぐらい歩いたが、嘉陵はその倍以上は歩いたのだろう。

 嘉陵は志村坂上まできて、すでに申の刻(午後四時)ぐらいだったが、いつまた来られるか分からないということで、10年前に参拝した志村の熊野権現を再訪している。

「以前に来た頃には、社の裏手にある高い木立もまだ伸びていなかったので、秩父の山々はもとより、その後ろにある碓井に連なる山々、近くにある丸池の辺りを人が行き交う光景、また、西北の新座(にいくら、埼玉県和光市からこちらに続いている田圃などが一望のもとに見渡せて、またとない風景であったが、今は背の高い木の丈が伸びて、こずえに遠望が遮られ、葉は落ちてしまったとはいうものの思うように眺めることはできない。ことに今日は夕霧が立ちこめてきて、近くにある馴染みの山々すらはっきりとは見えない。まださほど年月は経っていないのに樹木が伸び、これほど周りの景色を変えてしまうなどとは思ってもいなかったことである」

 嘉陵が現在の風景を眺めたらどう思うだろうか。

 権現山から西へ下って田圃を眺めたり、熊野権現が志村城だった時代の空堀の跡が楢、松、杉など植えられ林になっているのを見た後、嘉陵は志村にあるという一夜塚について地元の人に問うている。一夜塚は熊野権現の南方十丁(約1.1キロ)ほどの場所にあり、今は塚はなく、畑になっているが、昔、志村城を攻める時に一夜で塚を築いて城内に大筒(大砲)を打ち込んだのだという話を聞いている。

 嘉陵はその戦は北条氏綱と上杉朝興の戦いで、北条勢が上杉方の志村城を攻略した時のことだろうとして、そうならば当時、大筒が使われたなどという話は聞いたことがないので、その伝説は誤りだろうと考察している。

「果たして事実はどうなのであろうか。重ねて古い文献を紐解き、その事実を調べる必要がある」

 嘉陵は好奇心、探求心の強い人だったのだというのが分かる。

「板橋の宿の乗蓮寺にも古碑があるが、今日はもう日が暮れてしまったので見ないで通り過ぎる。

 とる筆のあとさきわかぬ言葉(ことのは)もあすはきのふのかたみとも見ん

               正靖時に六十七歳

 ほどもなく行て問なむ世の外の冬ごもりせるのべのささ垣」

 

 




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