
今年は大雪で、多くの人が亡くなりました。当地は日本有数の豪雪地帯で、20年ちかく住んでみて今更ながらいろいろ考え込んでしまうことがあります。
いま私が住んでいる家は、祖母が存命時に建てた古いものでして、私が大学で上京して以来、関東での生活にくぎりをつけて戻った時は無人でした。
雪国ですから、とうぜん冬になるとぼうだいな雪が降ります。家の周りに2メートル、山に行けば4メートル以上つもるのがふつうだったりします。どうやって生活しているんだろう?と都会にお住いの方々は不思議に思われるでしょうね。(はい、ほんとうに不思議なんです。)
さて、私はこの地に住みはじめた頃、スノーボードもすこしやってみました。DVDを買って見まねしながらスキー場で練習してみましたが、体力のピークもすぎてるし当然うまくならないのでやめてしまいました。
前置きが長くなりましたが、「八寒地獄(ハッカンジゴク)」です。
先に『往生要集』を参照して天道の人々、いわゆる神さまの世界に生きる人々の〈苦〉についてご紹介しましたが、そのようなこころよさに満ちた天道と対極になる生存状態が「地獄道」です。
『往生要集』の冒頭から地獄の膨大な種類と様相と、なぜそこに堕ちるのかという記述がえんえんと書かれていまして、これが中世の貴族たちを震え上がらせ、その恐怖は、のちに野火、山火事のごとく武家や民衆にひろがり、彼らのこころを浄土につよく向かわせていったというわけです。
さて、そこでの地獄の説明は、火や炎の熱によって責められる描写が大部分で、「頞部陀(アブダ)等の寒地獄があるが…ここに述べる暇はない,」と源信は述べています。
極寒の雪国において、輪をかけるように寒い営為を余儀なくされている私としましては、八つある極寒の地獄というものがどんなものなのか、八寒地獄におちるというのはどんなカルマの報いなのか気になりました。世親の『倶舎論』(※1)によりますと、
一、 頞部陀(アブダ)
ニ、 尼剌部陀(ニラブダ)
三、 頞唎吒(アセツタ)
四、 臛臛婆(カカバ)
五、 虎虎婆(ココバ)
六、 嗢鉢羅(ウバラ)
七、 鉢特摩(ハドマ)
八、 摩訶鉢特摩(マカハドマ)
一から五までは、はげしい寒さに対しておもわず漏れてしまううめき声をうつしたものだそうで、『北斗の拳』でケンシロウに秘孔を突かれた悪人の意味不明な叫び声を彷彿とさせます。
六以降はインドの花の名前でそれぞれ青蓮華、赤蓮華、さらに大きな赤蓮華だとされています。これらは極寒で氷の中に咲く青い蓮華や、寒さで皮膚が裂けた赤い蓮華に見立てているといいます。熱地獄の獄卒によって溶かした銅を口から飲まされるのも恐ろしいですが、この極寒地獄は、獄卒こそでできませんが、苦と孤独と狂気が入り混じった文学的表現になっています。
さて、この寒地獄に堕ちるとカルマとはどんなものなのでしょう。調べたところやっと「多くは、賢者や聖者を謗ったことによってこのような苦しみを招く」という一文(※2)を見つけました。
私たちは心のどこかで自分が他者よりすぐれているという勘違いをしているものです。私じしんは強く思い当たることがあり、過去のしっぱいを思い出しては恥ずかしくなるのですが、それは若いころ、ちょっとしたことでも怒りっぽかったんですね。
「あ、マウントとられそう」と感じたらいちいち反応してたように思います。これも他者の実力を内心あなどっていることに無自覚だったからこそ、そうしていたんだなといまは思います。
大乗仏教の文脈で拡大解釈すれば、すべての生きとし生けるものにはもっとも尊い仏性が備わっているので、そういうものも一緒くたに他者あなどっていた、ともいえますしね。
そこで雪国の生活はキツイという実感から、来世では「アブダ!」とうめき声をあげないよう心していきたいものであります。
本日もお読みいただきありがとうございました。
(※1)正式には『阿毘達磨倶舎論(アビダツマクシャロン』(大正蔵No.1558)四世紀頃に世親によって書かれた部派仏教の教義論書。この論書は量も膨大で内容も非常に難しく、理解をするに相当時間をかけるものですが、仏教基礎学としては矢張り不動の位置にあることは間違いなく、昨今、ヴィッパサナー等の仏教瞑想を中心とする修道論とその諸問題を考えていく場合、恐らく避けて通れないものです。初学者は『存在の分析』(角川ソフィア文庫)参照。
(※2)「多由謗賢聖招如」『阿毘達磨順正理論』(大正蔵 No.1562 衆賢造 玄奘訳)