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「夢のおはなし」改め「現実を夢の文法にそって読む試み」

         


いつ買ったのか分からないくらい昔、東京の古本屋でみつけてながく放置していた本がありました。ふと思い出して読みはじめたところ、面白くて何と5回も読みかえしたのが、『夢の読み方 夢の文法』(川嵜克哲著 講談社+α新書 2000年)でした。

私は幼少時からやたら夢見がおおく、いま思えば、はんぶん夢うつつ、はんぶん現実世界にいるような、境界的なありかたの子ども時代を過ごしていました(とうぜん、学校の成績はさんざんなものでした)。

誰でも見た夢がリアルすぎると、覚醒後も気になったり、日中いくらかの影響を受けてしまうというのはあるかと思います。それが子供時代の私のように毎晩のごとくひんぱんですと、親や教師たちが当たり前なこととして伝えてくる意味や価値に、いまひとつ確信が持てない、「それってホントなのかなぁ」という感覚が長く引きずられざるをえなかったのも、いま思えば分かるような気がします。

さて、くだんの本の著者は臨床心理学者で、現実と夢がどのように関わり合い、その意味は何かということをひとつの実体験をとおして考察しておられます。

ある朝の通勤、通学時間の電車の中で、ひとりの高校生男子がごみを捨てました。すると、そこに居合わせてそれを見た一人のおばさんが、「拾いなさい」と大きな声で注意しました。高校生は無視しています。おばさんの声はいよいよカン高くなります。「ね、ね、ひろいなさい、あら、睨んだってだめよ。あなたが悪いんでしょ…」おばさんはまくしたて続けます。

車中でそのいきさつを見ていた著者はだんだんイライラしてきたそうです。まるで、そのおばさんは、あたかも高校生や自分からも「捨てられたごみ」みたいじゃないか、と。

       高校生   ー   捨てられたごみ

特別な価値観をもって見なければ、車内で起こったことは最初は単にこれだけの現象にすぎません。

ところが「ごみを捨ててはいけない」としつこく高校生に注意した「正義おばさん」が、「捨てられたごみ」の位置に代入された形に見えてきた、というのです。さらに、著者には、そのゴミとなったおばさんが無視をした高校生に「私を捨てないで」と言ってるように感じられた、と。

       高校生   ー   おばさん ( 「捨てないで…」 )


ご紹介が長くなりましたが、このエピソードが示すところでは、私たちの意識が、目の前で起こっている現象の関係性に深く入り込んでいきますと、いつのまにか私たちが問題そのものとなり、「他者の体験」をしてしまうというのです。

表題の「夢の文法にそって読む」というのは、この関係性(上の ゜ー ゜)を見ていくうちに、問題、関係性そのものになってしまう。そして、これを読むというのは、あまり快い体験ではないと思われます。

ところで、私は心理相談業にちかい仕事をしていると自分では考えています。そういうなりわいの場では、上のエピソードのように、他者そのものとなったかのような感覚は、そういう相談の場では推奨されないとよくいわれます。一歩下がって、冷めた目で相手とその問題を見なければいけない、と多くの先輩方にアドバイスを受けました。

ところが、私にはそのような態度が難しく、例えば、相手が身体的に痛い部位がそのまま私のからだの痛みとして感じることに気がついたのは二十代半ばのころでした。「ああ、この方の痛みはこんな感じなのかなぁ」と。なので、著者の説は私にとってつよい信憑性を持っています。

さて、ここまでくれば、祈祷、拝み屋さんが、なぜ〈障り〉をうけるといわれるのか、私が何を言いたかったのか、皆さんも薄々お気づきになられたかと思います。

同書の著者は、東洋思想にも造詣が深いらしく、その問題をどう扱うべきかについて禅僧的なあり方をモデルにしておられます。

本日もお読みいただきありがとうございました。

 

           






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