
十年ほどまえ、師のお薦めで私は他宗様のカウンセリング講習会に通っておりました。そこでは「ファミリー・コンステレーション」(※1)と呼ばれる、かなり大掛かりな心理療法の実習をしており、おどろくべき結果を私は目の当たりにしました。
プライバシーを考慮してセッションの詳細は省きますが、私の隣に座っていた被験者の方の持病(現代医学でも制御がむずかしく再発を繰り返すタイプのものです)が一か月後にお会いした時に当人から快癒した、と聞きました。服の上からですが私もその方のその身体上の回復を確認しています。
これだけでは、漠として何がなんだかおわかりにならないと思いますが、はやい話が、こころのふかい層の流れが変わった時、「スカッとした」とか「気持ちよかった」のような単なるストレス解消をこえた肉体的変化がおこってしまうことが[まれにであれ]ある、と。私たちの想像以上に、こころの状態は、良くも悪くも、からだに強い影響をあたえるにちがいない、と。
しかし西洋医学のりょういきでは、すでに19世紀の終わりごろにシャルコーやフロイトによってその基礎的な研究がはじまっていましたから、とくだん新しい考えとはいえないです。しかし『止観(シカン)』(※2)とよばれる仏教固有の瞑想の伝統では、そのような心身相関についても西洋とは比較にならないほど古い時代から気がついていて、ある種の病気の診断・治療の体系さえも確立しています。
ところで、以下は〈伝説〉ですが、西洋やインドにも突飛な例があるようです。例えば、アッシジの聖フランチェスコは、手足、脇腹、または額に、イエスと同様の出血創があらわれたとか(聖痕現象)、インドでハヌマーンという猿の神様の熱心な行者の尾骨が、猿のように長く成長していったとか。そのような現象を、なんらかの病気に含めて考える医学者もいるようです。その可能性もありますね。しかし、信仰の文脈では、にんげんに埋もれた未知なる力の発現としてとらえておこうと思います。
私が若い時分、親しくご指導を賜りました尼僧様は、五十歳を過ぎられてから「弁才天修儀」、「修儀頓成」(※3)とよばれる難行にいどまれ、行満された方です。80歳を過ぎられても弁天様のようにご聡明かつお美しい方で、信仰と行が肉体におよぼす力に、おどろく以外ありませんでした。こころとからだが完全に表裏のかんけいにある、とすれば、上のようなお話も想像じたいは可能なはんちゅうとおもいます。
それがどうした、「さとり(正覚)」や「救い」と関係あるんか、という批判も想定できるのですが、インドの古い時代、さとりを含めたこころの変容と肉体的変化は無関係ではないと考えられていたと私は想像しています。これに関してはまたべつな機会に書いてみましょう。
本日もお読みいただきありがとうございました。
(※1)Wikipediaより引用;「人間の意識(感情や思考、身体感覚、生理的欲求など)に無意識的に影響を及ぼす隠れた力動を顕在化させる手法、と主張されている。日本国内では「家族の座」「家族布置」あるいは単に「コンステレーション」とも呼ばれる。」創始者はドイツ生まれ神学者・心理療法家バート・へリンガー。
(※2)止と観は原始仏教から大乗仏教まで通底する定(サマーパッティ;いわゆる瞑想)の二大柱。「止(シャマタ)」にあたる定は、釈尊在世時代よりも古く、ドラヴィダ系文化に起源を持つと考えられています。一方、仏教特有の「観(ヴィパシュヤナー)」は、わが五蘊(人間を構成する五つのあつまり)のありのままを観察します。巷間の書物はなぜか五蘊のうち色薀だけを観察することに終始していますが、正確には他の四薀と、その関係性を観察します。この観察は本来「苦」を契機にし、また「関係性」は空間/時間的因果の無限にちかい連関」の謂いであり、言語表現の外部であります。
(※3)宇賀神欲酒供の前行。私は文中の尼僧様より「やめた方がいいわよ。死んじゃうから」と忠告を受けたことがあります。同門では唯一、令和七年に田坂龍旦師が満行されました。