
のろい、と聞くと、わが邦においては「丑の刻参り」が、その代表的なイメージであります。
私は小学生のころ、つのだじろう氏の『恐怖新聞』で、女の人が白装束を着て、頭にゴトクを逆さにはめてそこにローソクの火をともし、五寸釘とワラ人形をもった描写を見て、ふるえあがったものでした。
のろいの語源は「のる(宣る)」で、いみは「口に出して言う、宣言する」です。派生語としては「祈る(居+宣る/意+宣る)」、「祝詞(ノリト)」、「名乗る」などがあります。乗る、といういみに解してもなんだか意味深だとおもいませんか。名が何かに乗ってどこかに移動していくのでしょうかね?
さて、先般の記事(サットヴァ・カルマン 有情の業 - 満願寺教會ブログ/カルマ - 満願寺教會ブログ)の考え方からすると、結果の遅速の差はあれ、「のろう」という行為は物理的な現象を含めた(あなたのお好みで含めなくても問題ありません)作用をもっているといえるし、むしろこの世界は「のろい」にみちみちている、と私はほんきで考えています。
人は昔から今にいたるまで、毎日、毎時、のろいを分泌せずにはいられない存在なのでしょう。たとえば、私も苦手なタイプの人はいるので、どうしてもそういうタイプの人にあうと心がブルーになってしまい、ぶつぶつと不満をもらしてしまうことがあります。
ところで、仏教では行為を三つに分けて考えます。こころ、言葉、身体の三つでこれを三業(サンゴウ)といいます。こころはすべての行為、カルマ、業の本源なわけですが、これに言葉と身体的行為が一致して三業を成立させてしまうと、それを行った人に強い拘束力をもつわけです。これはじぶんがじぶんに懸けたのろい、といっていいでしょう(※1)。
そのようにじぶんにのろいを懸けてしまうと損がおおいです。いや、損しかないでしょう。はんたいに、日々、こころに神仏や教法を思い、想起し続ける(※2)。そうすることで、次第に私たちの言葉や身体的行為も変容をおこしていく、と。
それは自分にかけたのろいを解き、いつか他者を利していくのであります。
本日もお読みいただきありがとうございました。
(※1)密教はこの三業論に積極的な意味を与え、成仏論の基礎に置いた。
(※2)仏教用語で念(スムリティ)。所謂「念仏」も本来はこの意味。