
カルマ(karma)という語は、インドという地域性をこえて、もはや世界共通語のひとつになったといってもよいと思います。この言葉の原義は「行為」であります。ただ、その言葉の意味は、単なる行為、actionという意味だけではなくて、主体によってなされた行為の余力、潜勢力が、のちにあらわれる結果を、当の主体にかならずもたらすことをふくむ概念なんですね。
わるい行為はそれを行った人に苦を、よい行為は楽をその人にもたらす、そういう法則がこの世にあるにちがいない。たんじゅんに言ってしまえばそういう考え方です。
仏陀の在世時代よりも古い起源をもった、このカルマの語を抜きにしてはまったく成立しようがないのが「仏教」であると私は考えています。しかしながら、じっさい仏教のお話し、法話の場、昨今ユーチューブ法話などであっても、このカルマに関するお話しは難しいテーマとみえて、ほとんど正面から扱ってはいないんじゃないか、巧妙にさけているんじゃないか、という印象を私は受けています。このテーマはインド人にとっては、仏教徒でなくても当たり前なんですけどね。
なんであつかうのが難しいテーマなのかといいますと、それは性別や身体的特徴からはじまり、両親や、生まれた国や身分制度など、本人の自由選択のらち外にあるものはすべてが、前世の、またはそれ以前の世に生きていたときの行為の結果とみる考え方だからです。
このテーマを取り上げるのはたしかに重くて、軽々しくあつかえないことはその通りだと思いますね。
経済人類学者の栗本慎一郎さんが、ご著書(※1)に書いておられたことで、とあるチャネリングセッション(※2)で遭遇された以下のようなエピソードがあります。
「なぜ自分は重度の障がいをもって生まれてきたのか」と、ある質問者が問うと、チャネラーは「それはあなたが前世で選んだのだ」と答えました。そうすると、質問者は「こんな人生を自ら選んだおぼえはない」と押し問答と議論がはじまった、というんですね(※3)。
仏教的なカルマの概念というのは、ひとの意識が自由な選択ができる、という上のような、(=西洋的な)前提とはかなりちがうもので、ひとの意識は煩悩によって因果の関係が見えないため、おおむねまちがった選択してしまうからなのだ、というのが私の理解であります。
栗本さんが著書の中で強調していますが、こうした過去世、前世のものがたりが、なんであれその人にとって有効に(=治療的に)作用するには、「納得できる」ということが条件となる、というのもその通りだといえましょう。納得できる条件がよく整えられていないと、こういうお話はおもいっきりコケますのでご注意いただきたいと思います。
むかし、私はとある有名な外国のチャネラーに「あなたの前世はお笑い芸人です」といわれたことがありますが、今世において、私の行為はその意図とは関係なく「バカだねぇ」と笑われたり呆れられりすることの多い人生ですので、かのチャネラーの言葉もいくらか納得せざるを得ないのであります。
本日もお読みいただきありがとうございました。
(明日から浴油に入りますのでしばらくの間、ブログはお休みになります。)
(※1)『人類新世紀終局の選択』栗本慎一郎 青春出版社
(※2)チャネリング トランスや自動書記などを通じて「霊的存在」や「高次意識」とされる情報を受け取って伝える媒介行為の総称。
(※3)ibid.,151. このくだりは「因果応報」としてひとは自らの行為の結果に、生まれたことも含めて責任を持たなかればならないのだ、ということをこのチャネラーは言いたいんだと思います。しかし、栗本氏がいうように「原理をミクロにいきなり当て嵌めてはいけない」。このセッションのエピソードは1991年以前のことのようですが、昨今はやりの「願望達成メソッド」や「引き寄せの法則」の範疇か、もしくはそのバリエーションみたいな印象を受けます。願望達成や引き寄せの界隈では、このような押し問答はおこらないのでしょうか。