
神仏への信心だけではなく、他者を信じ、たいせつに思うこころというのも、私たちが調子のいいときと、地獄のような苦境に立たされているときとではちがった様相を呈してくるんじゃないでしょうか。
ひとが苦境にあるとき、身体をはげしい痛みがさいなむとき、こころもまた動揺し、その人にとってもっとも尊いそんざいや価値を信じる心や他人を思いやる心がかき消されたりするのが常であります。
これは、私じしんが幾度も経験してきたことであります。
人生が順風満帆なときの信仰というのはなによりの倖せといえます。しかし、東西を問わず昔の信仰者たちは、人生にくり返し起こってくる〈苦境の時〉こそ、もっとも重要な修行の局面であると知っていました。
昔、アングリマーラ(「指の首飾り」)と呼ばれた山賊がいました。
パーリ語という古い言葉で書かれた仏典によりますと、彼はもともと由緒ある家の子息でした。彼が学生のときに、師とその妻からあらぬ嫌疑をかけられたあげく、「1000人の人間を殺害し、その指を首飾りにすればおまえの修行が完成する」というたいへん無茶な命令を告げられました。
きっとアングリマーラという人は、このうえないほど素直な人だったとしか言いようがないですよね。彼は師の命令にしたがって山賊となり、999人の指の首飾りを作ったところで仏陀と道で出会います。そして彼が仏陀に会ったその日に、殺生をやめ、出家をすることになります。
アングリマーラは出家したものの、托鉢先で石を投げられ、棒で打たれたりして、文字どおりズタボロになる日々が続きます。ある日、彼が頭やからだから血を流して托鉢からかえってくると仏陀はこうかたりかけたといいます。
’’カマ、ブラーフマナ、カマ、ブラーフマナ。ヤンヒ、トゥヴァム、ブラーフマナ、カンマム カリトゥヴァー バフム アプンニャム パサヴァスィ。タッサ テー イダム、カンマッサ ヴィパーコー イダ チェーヴァ ニライェー チャ。
タッサ テー イダム カンマヴィパーカム イダ ディッテーヴァ ダンメー パティセーヴァトー ヤター トゥヴァム ナ チラッセーヴァ カーヤッサ ベーダー パラムマラナー スガティム サッガム ローカム ウパパッジッサスィ。’’(※1)
「忍べ、婆羅門よ。忍べ、婆羅門よ。 汝が曩(さき)に造りし悪業、甚だ多き不善なり。 婆羅門よ。そに対し汝が業は異熟(イジュク ※2)なり。現世にても、また死後地獄に堕ちたる後もまた。
そに対し今生にては汝が業の異熟なりしが、汝によってまさに見られたるこのダルマ(※3)をともないつつ、すでに業によれる苦の異熟を汝は味わいつつあるが故に、 まさに命終の時至らば必ず善趣・天界に生まるることを得ん。」
お経なので昔風の表現にしてみましたが、だいたいの意味は、「いまこうして、お前は過去の悪業によって、ほんらい無限のような長い時間にわたって味わうべき苦を、仏陀によって授けられたダルマをともないつつ今ここで受け尽くしているのだから、それによって報いは焼尽し、次の生ではかならず善き生存のあり方になるだろう」と。
そのとき、仏陀からじかに教えをうけたアングリマーラは、阿羅漢果(アラカンカ ※4)を得たとされていますが、やはり、その後も托鉢中に村人たちに暴行を受けていたといいます。そのたびに仏陀から「カマ、ブラーフマナ(忍べ、バラモンよ)」と呼びかけられ、ついに座しながら涅槃に入られたと伝えられています。
身体の苦痛にさいなまれた時、私たちはどんなこころの反応をするのでしょうか。
「なんで私だけ」という怒りがでてきてしまうのでしょうか。
「あの人ばかり平穏でうらやましい」というねたみがおこってしまうのでしょうか。
そんな時、殺人鬼から聖者と変容したこのアングリマーラという方を私はすこしでも思い出したいと願っております。
本日もお読みいただきありがとうございました。
(※1)マッジマニカーヤ 86.18 (アングリマーラ経)より。
(※2)過去の善悪の行為が時間を隔てて別の形で結果(果報)を生じること。
(※4)diṭṭheva dhamme または「見られたるダルマにおいて」。アングリマーラは暴行を受けても怒りを生じることなく耐え忍んだと伝えられているので、仏陀が彼に授けたダルマというのは因果の理法であり、彼はそれをふかく想起して暴行を受けても怒りを生じることの無意味さを憶念していたのであろう。
(※3)存在や生への根本的な誤解=煩悩を完全に滅して再び再生しないといわれる境地。