
言語の世界、つまり意味の世界に生きているいじょう、そのなかでどんなに頭脳明晰で世知にたけておられる人も、ナーガールジュナ(※1)が指摘するいみでの誤謬のなかに埋没し、その幻の中に生きているといえます。
そこで、誤謬をはなれた、じゅんすいな真理の立場から、ふつうの人々がその誤謬を指摘され、もてる知性をフルに使っても論理的誤謬をあらためることができなければ「救い」のてがかりも「安心」も、ましてや「成仏」なんてありえないとすれば、そんな言説は一体何の意味があるんだろうとみなさんは思いませんか。
昔のインドの民衆も、煩雑化した仏教の言説は、理解することが難しく、結果ヒンドゥー教の説く現世利益に流れてしまったのは当然だったとおもわれます。
歴史上の仏陀がされたことは、ひとりひとりの理解度(境涯)に合わせた法、つまり方便(ホウベン)を説かれたのでした。舎利弗尊者(シャリホツソンジャ)のような智慧第一のお弟子のような例外はともかく、もと拝火教の摩訶迦葉尊者(マカカショウソンジャ)などは、仏陀とのはげしい神通力比べという方便を経て教えを体解するにいたります。
いぜん、『仏陀がなされたこと - 満願寺教會ブログ 』で、キサーゴタミーが正気を取り戻したエピソードをご紹介しましたが、仏陀が彼女に対して行ったのもやはり方便です。
よく用いられる比喩で、「月」を真実、真理だとすると、それをさす「指」を方便という言い方があります。さす指(ことば)の先を見て、月(意味)があることを知るというわけですが、方便のもともとの意味は「手立て、手段」だといいます。
そのように私たちが「仏のおしえの真実」というものに入っていこうとするとき、そこには方便(手立て)というものが必然的に介在する、と考えるのが自然であります。ところが、わが国において、この方便ということばは、密教をのぞいてあまり積極的な意味をもって使われてこなかった経緯があります。
「菩提心を因とし、大悲を根とし、方便を究竟(クキョウ)となす。」
これは『大日経』という代表的な密教経典の一節で、わが国が伝承した密教の思想的立場を端的にあらわしているとされます。「究竟」の意味が「最終的な到達点」だとすると、密教では方便を仏陀の智慧と慈悲の究極、極致とみるんですね。千手観音は千本の手をもっていますが、それは救いがたい無数の生き物を無数の方便をもってすくう慈悲をあらわしています。私の理解では、なぜか顕教(ケンギョウ ※2)では、この方便を何とはなしにやや格下にあつかってきたように感じます。
もし、私じしんが病気や大けがで悶絶していれば、「ただしい医学とは何ぞや、その本質とは」というお話をえんえんとされるよりも、いますぐ治療してこの痛みを何とかして、と大声で懇願するでしょう。苦しんでいる、すくわれたい側からすると方便が一番ありがたいんですね。
先般、『 わたしはなぜ中観を理解できないのか - 満願寺教會ブログ』、 『「ただしい」仏教とはなんだろう - 満願寺教會ブログ 』で、部分的にとりあげましたが、本覚思想は仏教にあらず、唯識もちがう、密教なんてありえない、という学者さんたちの路線をつきすすんでいくと、彼らがめざす「ほんとうの仏教」は、方便をいっさいみとめない地平,、つまり誰にも取りつくしまのない世界にいきつくことになるような気がします。
これは真実、真理をあまりにもピュアな結晶に精製しようとする知的いとなみをされる方に共通する姿のように思いますが、「そう思うのはお前の性格がひねくれているからだ。お前の論文読解力が浅いだけだ」といわれたら、何ともかえすことばがないです。
いっぽう、慣用句「うそも方便」というのがあります。言いたいこともわかるけれど、しかし仏陀はうそ(妄語;モウゴ)をつよく戒めました。なので、方便だからなにしたっていい、というわけじゃないのでよくよく方便とはなんであるか、考えてみたいものです。
(明日から浴油祈祷に入ります。しばらくの間、こちらはおやすみになります。)
本日もお読みいただきありがとうございました。
(※1)大乗仏教の空の思想を大成した。中観派の祖。
(※2)密教の対義語とされる。弘法大師空海によれば、密教経典には顕教経典にはない仏菩薩明王のサマーディ(三摩地、三昧)に入り、現世で仏身を証する具体的な修法が説かれているという。