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「ただしい」仏教とはなんだろう

            


今回は、たぶん多くの人にどうでもよくて、かつめんどくさいテーマであります。

カイコが糸をはいて自分の回りにだんだん繭(マユ)をつくっていくように、今般の私も雑文を書き続けているうちに、せまい閉鎖的な思考のわくに囲いこまれたような気がしてきてたところ、寝室に積み上げていた本になかに袴谷憲昭氏の『本覚思想批判』というむかし買った本がぐうぜん目がとまりました。

私が学生時代、袴谷氏は、松本史郎氏とともに「批判仏教」で名を馳せた方でしたが、当時の私といえば、あんのじょう、中沢新一氏『チベットモーツアルト』や津田真一氏『反密教学』にそうとう傾斜しておりまして、ぶっちゃけ言語化できる真理とか、「非神秘主義的な仏教」はぜんぜん関心がなかったんですね。

こんかい私があらためて理解した袴谷氏の「本覚思想批判」は、「仏教特有の真理」を、空間的にとらえることをことごとく否定して、すべて時間的にとらえるべきだ、というものでした。

いわく、モノやことが存在しうるとかんがえられる空間というのは、私たちの意識にとって、どうしても「実体視」してとらえてしまう(ためしに想像してみて下さい)ことと、その空間にすべてのものやことをすっぽりとおおい含んでしまう[ように想像できる]ため、袴谷氏がいう「土着思想」を批判できずけっきょく肯定してしまう。

たとえば、本覚思想とは、差別をふくむ社会通念や、制度や、暴力や死などを煩悩のだとすると、そのような波がたつ場(空間)は、いわばのようなものであり、煩悩の波とさとりの海は本質的には同じ、ということを言おうとしていて、このようなものは非仏教、諸悪の根源であり、われわれはいまこそ智慧をもって切りすてていくべきだ、と。


袴谷氏が主張する仏教というのは、うえのように正/邪を見極める思惟力こそ、「智慧」であり、仏教とはそもそも智慧の宗教なんだから、その智慧をもって批判をし続けることこそ、仏教なんだ、と。

するどい識別力の剣をもって、人間の思考の誤り、矛盾を切除し、捨てていくと、さいごには透明で純粋な真理がひかりかがやくのだ!

私はそのように袴谷氏の主張を理解したあとで、これって発想が西洋医学によく似ているよなぁと思いました。とにかく病原体や異物を顕微鏡やらMRIでしらべ、特定して薬物や刃物で切り取ろうとする。私は西洋医学の治療がわるいということを言いたいわけではないのですがにているような気がします。

人間がじゅんすいさ、ピュアなもの、正しいものがあると信じ、もとめて、もとめて、もとめつづけた結果、私たちが歴史の中でみてきたものとは何だったのでしょう。キラキラとまぶしく、ほんとうに感動するものもあれば、ふれるだけで危険な化学物質みたいなものを作り出してしまったこともありますよね。

さて、袴谷氏にかぎらず誰でも、真理とはなんぞ、ただしさとはなんぞ、とながく真剣な思索を重ねつづけたとき、ある日、これだ!という天啓ににたひらめき、ユニークな結論にたどりつくことがあるんじゃないかと思います。そして、この天啓のようなひらめきというのは、おそらくですがその人のこころと行動を強力に支配して、時には理性もうしなわせる可能性があると私は思います。

吉とでるか、凶とでるか。
それは、はたして薬だったのか、毒だったのか。

論文の中で、袴谷氏が、仏陀の「ダルマ(縁起説)」を「時間」と訳してしまったことには、不遜にも彼の学者としての理性をちょっと心配をしてしまったけれど、しかしながら、たしかに「時間」の観念というのは、私たちを追い立て、追い詰める逃れられない力であり、要は無常で苦の集まりなのだ、という気づきは、思考がいつも停滞しがちな私にはよくよく耳を傾けたい視点だと改めておもうのでした。それが「正しい仏教」かはわからないけれど。

本日もお読みいただきありがとうございました。

 




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