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わたしはなぜ中観を理解できないのか

       


ちまたに仏の教えを「哲学だ」という人がおられます。なかには「合理的、科学的思考だ」と解釈して称賛する人も結構おられますね。

じっさいは、そうでもあり、それいがいでもあるといえるひろがりとふかさを持っているのが仏教の全体なのですが、そのなかでやはりその人にとってわかりやすいものを信じたり、称賛したりしますし、その人にとってわからないものは、不合理であるとして退け、しばしば歴史的に仏陀が説いたものではないといったりします。

私はどうなのか、というと、大乗仏教思想のメインストリームといわれる「中観(チュウガン)」(※1)はこんにちまで珍紛漢紛(チンプンカンプン)なのですが、中観より時代的にあとにでてきた「唯識(ユイシキ)」(※2)という思想には、なんでかわからないけど妙に親近感をもってしまいます。

この、なんでかはっきりとわからないのに、自分があるとくていの対象を親近感をもって選んでいるのか、ということが私はとても気になってしまうんですよね。

たとえば、定方晟さんという仏教学者がお書きになった『空と無我』講談社現代新書)を読ませていただくと、「輪廻も唯識も認めません。そんなのは幼稚な考えです」という断固たる意志が伝わってきたりします。

高名な大学者と、輪廻を信じる田舎行者にすぎない私と比較するのはそもそも不遜であるとは承知しております。それにしても、定方さんと私とは、仏教の枠内で、どうして正反対にちかいくらい感じているものが違うんでしょう?
 
それはアタマがわるく、どりょくもしないんだからあなたが中観が理解できないのは当然だよ?という批判があれば、まさしくその通りです。しかし、じつは仏教がたんなる哲学や常識的正論だけではないとしたら(私はそう思いますけどね)、ほんとうのもんだいはここから先にあります。

それは、大学者の定方さんと私は、個体としてなぜ違うのか、というもんだいはそのまま残されている、という点なんですよね。だって環境も地アタマもちがうんですから。

この問いに、中観という思想哲学そのものから答えを得ることができない、と現時点での私[の理解度で]は考えています。

いっぽう、私がなぜ中観を理解できないのか、とか、私やあなたが、それぞれどんな個別の認識世界の住人なのかを説明しようとするのが、私が親近感をもっている「唯識」ということになります。先の記事(cf. 仏教的なこころの変容  - 満願寺教會ブログ)で、蓮如上人が、何百何千という人が阿弥陀如来の本願を信じることができないのは「宿善」がないからだ、と嘆いたというのも、このお話とそのままリンクします。

わがくにの仏教は、実におおくの宗派があり、時におたがいつよくけん制しながら、人それぞれのこころにフィットする信仰がモザイク模様のようにそんざいしている、という厳然たるじじつがあります。この厳然たるひとりひとりにフィットするぐあいや、個別の理解度の差異を存在しないように仏教を説くのは、そもそも仏陀ごじしんがなさらなかったことでした(cf. 仏陀がなされたこと - 満願寺教會ブログ)。

ここで、私たちはやっとひとつの小結に着地できるようです。

ある特定の教えや思想がわかるとか、特定の神仏に親近感を感じるかどうかは、もともとその人の無意識、ふかい心の底に、その教えを理解できる潜在的な種子が過去世にすでに撒かれていてそれをおぼろげにでも想起しているからだ、と。

このお話を発展させると、いろんなカルトが手を変え品を変えてせまってくる手法、すなわち、「この教えが真理です、したがってあなたはこの真理に従わなければいけません、従わないと地獄往きですよ」という言い方は完全に無効というか、最初から無意味なんですね。

そのようなわけで、私は私の天部信仰をあなたになにがなんでもつよく勧めるとか、はたまた信者をやたら増やして巨大教団を作ろうとかは最初から考えていないのです。

坊さんなんだからもう少しまじめにやれ、と怒られそうですが。

本日もお読みいただきありがとうございました。

 

(※1)大乗仏教のメインストリーム思想である中観に関しては、御覧のとおり私が理解し、言語化できそうなことは殆どありません。また参考書は、私にとってわかりやすいと思えるものは殆どなかったのですが、唯一『大乗仏教の思想』(レグルス文庫)は興味深く読みました。

(※2)ご興味のおありになる方はYouTube佐々木閑氏の講義が参考になるかもしれません。ただし、氏の講義は西洋哲学や現代科学思想との比較と仏教史を含め、包括的かつていねいではありますが、やはり哲学が好きな人向けとなるでしょう。参考書として私は『認識と超越』(角川文庫ソフィア)というもはや古典といってよい本を未だに読み返しています。

 

 

 




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